理屈を言う人は直感を蔑ろにする訳では無いんですよー
いつも理屈を捏ねる私ですが、何か作品に触れる際、初めから、分析的に見てやろう、とは、全く思わなかったりします。ほぼ、直感・直観に任せます。
で、作品の良し悪しの判断の基準は、「身体が震える」かどうか、です。「身に沁みる」、という、とても適切な言い回しもありますが。
うーん、極めて直感的で、曖昧ですねえ。何言ってんだ、て感じですか? でも、「あー、解る」、と思って下さる方も、いらっしゃると思います。感動って、かなり身体的なものです。
で、その後で、「何故自分は感動したか」、というのを、考えるのですね。そこから、分析的に見ます。そして、色々考える内に、自分を感動させたものに共通する論理が、導かれてくる訳です。
「この部分は何かが違う。だが、”どう違うか”が、解らない」、という事も、しばしば起こりますね。専門的な知識が足りなかったりして。それを明らかにしたい、というのが、学習の動機付けにもなるのですね。
初めから、分析的に見る、というのは、自分が良いと思っているものに当てはまるものを、「良いもの」として受け容れる、という事です。それは、いかにも不自由だと思います。
勿論、直観と論理は、分かち難く結び付き、相互作用するものです。独立ではありません。知識を蓄える事が、直観的・直感的判断の仕方を変えるのは、よく起こるでしょう。
暗黙知に任せる、という言い方も出来るかも知れませんね。そういう意味でも、直感・直観(←余り考えずに使っています)というのは、とても重要です。
でもですね、直感に頼り切ってはいけませんよ。記号も重要。両方大切にしてみましょう。
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コメント
>で、その後で、「何故自分は感動したか」、というのを、考えるのですね。そこから、分析的に見ます。そして、色々考える内に、自分を感動させたものに共通する論理が、導かれてくる訳です。
その方法は現象学の「本質直観(本質観取)」とほぼ同じです、たぶん。
「色眼鏡」というエントリーでお書きになっていたことも現象学の「エポケー(良い悪いの判断保留)」と重なります。
TAKESANさんの文章には竹田現象学と非常に多くの共通性を感じるので、まだ現象学を御存じないというのが驚きです。思想的にかなり近そうですね。
投稿: 夢草の剣 | 2007年4月14日 (土) 20:41
夢草の剣さん、今晩は。
あ、現象学を勉強していない、というのは、フッサールやメルロ=ポンティの原著を読んだりして深く理解している訳では無い、という意味ですね。竹田さんと西研さんの本を読んだりした事や、他の現象学の入門書は、読んだ事はあります。結構前ですので、内容は殆ど憶えていませんが、共感する所があったと思います。
今は、「エポケーとか間主観性とかは、現象学の概念だったっけ?」、というレベルです…。
>TAKESANさんの文章には竹田現象学と
>非常に多くの共通性を感じる
私が思想的に影響を大きく受けているのは、よくここにも書く様に、高岡英夫氏ですね。で、高岡氏は、メルロ=ポンティ等を、よく援用されていました。
私は、竹田さんの説を余り知らないのですが、似ている所があるとすれば、そういうのが関係しているのかも知れません。高岡氏は同年代の学者ですので、何らかの影響を受けたり与えたりしたのかも知れませんが。
高岡氏は、市川浩氏の影響を受けておられると思います。著作も参考文献に挙げていました。
そういえば、以前、構造構成主義を話題にした時、高岡氏の説に似ている、と言いましたが、何らかの共通性を、感じ取ったのかも。西條氏は、竹田現象学の影響を明言なさっていますね。
高岡氏も、現象学や構造主義等の方法によって、武術や身体運動を解き明かそうとされています。
投稿: TAKESAN | 2007年4月14日 (土) 21:34
あ、そうそう。
以前、メルロ=ポンティとかフッサールの原典を、読もうとした事はあります。
で、読み始めて程無く、撃沈されたのでした…。
今は、実証科学に関心が移ってきたので、哲学系の本は、後回しにしている所がありますねえ。
投稿: TAKESAN | 2007年4月14日 (土) 21:38
私もフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の一ページ目で撃沈しました。
竹田青嗣「現象学入門」も最初歯が立たず、同著者の「はじめての現象学」でようやく理解の糸口を得ました。
竹田現象学の特徴は「どうすれば世界の実在を証明できるか」という認識上の難問を「確信成立の条件を確かめる」という問いに変更することで、観念論と実在論の対立、相対主義、懐疑論などのパラドックスを解決したことにあると思います。
ただし竹田氏の解釈は、哲学・現象学研究の主流派とは大きく対立するものらしいです。主流派の意見は私には理解不能なので事実は分かりませんが。(^^;
高岡さんも現象学的アプローチをされているとは知りませんでした。これはますます読まねばなりませんね。
投稿: 夢草の剣 | 2007年4月16日 (月) 01:08
こんにちは、TAKESANさん。
私は良く中島誠之助の「美術館に行って良い物を沢山みなさい」を引き合いに出すのですが、我々がニセ科学言説を批判するときに「ここがおかしい」「ここがデタラメ」とか言うわけですが、実のところ、ニセ科学言説に触れた途端に「おかしい」と感じている訳です。その「おかしい」だけでは、人に説明出来ないので、「ここがデタラメ」とか説明する訳ですが、そんなのは説明のために見つけている訳でして、その前に「おかしい」はある訳です。
中島誠之助は「鑑定してほしいものを、私が店の表を見たときに、通りの向こうで差し上げて見てください。私が手招きしたら店に持ってきてください。そうでなかったら、そのままお帰りください」なんて無茶苦茶な事を書いたりしていますが、真贋の鑑定で偽物を見抜くというのは、そういうたぐいのものなんですね。
投稿: 柘植 | 2007年4月16日 (月) 10:36
夢草の剣さん、今日は。
竹田さんの説は、興味深いですね。現象学は、勉強しようと思っている分野で、入門テキストもあるのですが、まだちゃんとは読んでいないです…(と言うか、どこが「入門」なんだ、という内容だったり)。
>高岡さんも現象学的アプローチをされ
>ている
『身体調整の人間学』ですね。余談ですが、斎藤孝氏が共著者です。
投稿: TAKESAN | 2007年4月16日 (月) 13:24
柘植さん、今日は。
正に仰る通りですね。柘植さんの骨董の目利きの喩えは、大変解り易いです。
結局、直感的・直観的なものであるが、その直観とは、豊富な経験と、論理に裏付けられなければならないと思います。そうでなければ、「ただ何となく」言えば良い、という事にもなってしまいますしね。
投稿: TAKESAN | 2007年4月16日 (月) 13:28
こんにちは、TAKESANさん。
>結局、直感的・直観的なものであるが、その直観とは、豊富な経験と、論理に裏付けられなければならないと思います。
例えば「李朝の壺は胴の張りから首にかけて『えもいわれぬ気品』がある」なんてのは、「良い物を沢山見て」いくしか無いわけですよ。でもね「良い物」を見たって「高いんだろうな」なんて見方はダメで、その壺をろくろで形作った陶工の「その技量に達するまでの辛酸」すら感じ取る見方をしないと、なかなか身に付かない訳ですね。だからこそ、出る言葉が「良い仕事していますね」なんです。私がそういう見方ができるかというとできないのね(実は仕事場が国立陶磁器試験所の流れを汲む研究所でね、私が入った頃は「意匠部門」の生き残りの目利きの人が何人かいて、いろいろ教えて貰ったんだけどね、才能が無いというのは仕方ない:笑)
研究でもそうだと思うのですよ、真面目にきちんとした研究を沢山見ていると、研究者が「ふと思いつきまして」みたいな言い方の発表でも、「ふと思いつく」までの研鑽がきちんと透けて見える訳です。そういう研鑽の上の「思いつき」が実を結んでいる事が感覚としてわかるから「良い仕事されましたね」と言える訳です。
投稿: 柘植 | 2007年4月16日 (月) 17:42
見て、考えて、作って、それで集積された知識なりを踏まえた上で、全体を直観的に把握する訳ですね。
ちょっと話は替わって。
私は武術に興味があるのですが、たとえば、達人とそうでない人の動きの違いは、体幹部の変形を先行させてエネルギーを生み出し、それを末端に伝える、という事が出来るかどうか、なのですけれど、動きを見る目、というのは、それが見分けられるかどうか、です。
で、実際に動きを見る、といった場合には、それを一々分析的に見るのでは、間に合わないのですよね。全体的に観察し、無意識に任せるのですよね。経験として蓄積された、無意識に貯蔵された知識(正に暗黙知)と照らして、判断しているのだろうと思います。で、その結果として、「うん、なかなか良い動き」、という表現になるのですね。
同じ、「良い仕事してますね~」、でも、その背景に、どれだけの経験と知識があるか、という事ですね。出力としては、ほんの一言ですが、それを発するまでには、大きな差があるのでしょうね。
私は、出来たとしても、それをちゃんと、論理的に把握出来ないのが嫌いな人なので(笑) 両方大切にしたいのですね。出来たいし知りたい(「他人に伝える」という事にも関心があるからかも知れません。武術の伝承は、余りにも後れていて、混乱状態ですので、そこに気持ち悪さも感じていますし)。欲張りなものです。知的好奇心の動機付けとは、そういうものなのだと思います。
投稿: TAKESAN | 2007年4月16日 (月) 18:50
こんばんは。
僕も作品と接する時は、「しっくりくる」とか「決まっている」とか「違和感がある、ない」とか、極めて感覚的な言葉を使う事が多いです。
人物画なんかをぱっと見たときに、何か違和感を感じたりすると、それがプロポーションがおかしいのか、人体の構造的に間違ってるのか、そんな風に後から分析することが自然かもしれません。もっと複雑な要因が絡みあうので、簡単に言う事は出来ないのですけどね。
やはり「ピン」と来るものは、良い姿というか、気品というか、凄く荒っぽいタッチのものでも、そんな風に感じることが多いです。ひとつひとつの行為に行き渡る神経の細やかさだったり緊張感だったり、そんなものが見えてきます。思わず「良い波動が出ている」なんて言いたくなるものです。
こう、なんというか画面から「スコーン」とこっちに向かって飛び込んでくる感じですね。
そういった取捨選択をした上で、分析しているのだと思います。最初の取捨選択の精度を高くする事が、重要なのかもしれませんね。
投稿: corvo | 2007年4月17日 (火) 02:46
corvoさん、今日は。
直観・直感というのは、実は、超複雑な分析機の様なものなのでしょうね。余り、初めから意識的に見ようとすると、判断基準を幾つかピックアップして、その他を捨象してしまう可能性があるのだと思います。
で、その、無意識の分析の精度を高める為に、顕在的な、論理的分析の作業(つまり科学的な分析)を積み重ねるべきなのだと思います。
又、他人と、良し悪しを議論する際にも、その事が重要ですね。直観・直感を基にした意見だけ言っても、「自分はこう思う」、で、完結してしまいますし。
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言い換えると、分析的意識を殆ど用いずに、直感によって、他人が納得するパフォーマンスを魅せる人が、「天才」と呼ばれるのでしょうね。
投稿: TAKESAN | 2007年4月17日 (火) 13:27