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2007年3月27日 (火)

整理

― ブログ・発見の「発見」 ― 科学上の諸々の発見から「意味」を発見 - ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判を

取り敢えず、リンク。後で、本文に追記するか、コメント欄に何か書くと思います。

リンク先に、どっかで見た人がコメントしてますが、あまり気にしないで下さい。

「ニセ科学」を冷静に用いるべきというのは、その通りだと思います。そしてそれは、ニセ科学を批判する代表的な方々は、当然、強く意識しておられる訳ですね。

続きは、又後で。

以下、追記。

批判歓迎。

ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判を

「よりも」という表現が、今一つ、理解出来ません。ニセ科学批判や疑似科学についての議論というのは、当然、具体的な論証を含んでいる訳ですね。そもそも、科学っぽいが科学では無いもの、という概念が対象なのですから、そこでは、「科学とは」、という、科学哲学的議論が為される必要があります。

要するに完全な科学とか非科学といったものはないという言い方もできる。科学と非科学との間には科学性と非科学性とを様々な度合いで含んだゾーンがあるといった表現も出来るかもしれない。

これは、ニセ科学批判者が、いつも主張なさる事ですね。「グレーゾーン」という言葉で。そして、それとともに、明らかに黒に近い、と判断出来るものもある、というのも、言われている訳です。実際、精神分析などをどう判断するかは、難しい問題でしょう。

ただこのような表現は図式的であり、固定化して使われると問題がある。「ニセ科学」とか「疑似科学」といった、明確に定義された概念があると思わせるような言葉はそれ以上に問題が大きい。

ニセ科学は、ある程度、明確な定義があります。それは、現在認められた科学の方法に則って実証されていないのに、実証したと主張されるもの、或いは、広く世間に、そうだと信じられているもの、です。それは、社会的な手続きの部分も、含んでいる訳ですね。

ただ個々の「疑わしい」あるいは「科学とは思えない」ような言説を批判する際には問題点を具体的に指摘することなくニセ科学とか疑似科学とかいったレッテル貼りで済ませるようなことは避けて貰いたいし

それはそうです。当然の事です。それは、ニセ科学批判者も、心掛けている筈です。「問題点を具体的に指摘することなく」ニセ科学のレッテルを貼る言動に対しては、ニセ科学を論ずる人からも批判が出るでしょうし、又、そうあるべきです。と言うかですね。問題点を指摘せずにレッテルを貼る、というのが、よく解らないのです。問題点を指摘した上でニセ科学と判断された(レッテルを貼られた。←余り、ポジティブな印象では無いですね)ものを、よく調べもせずに信じる、というのなら、解るのですが。それを、「レッテルを貼る」と表現出来るでしょうか。

勿論、ご懸念も、理解は出来るのですね。「ニセ」という、強い価値判断を含んだ語が一人歩きしないだろうか、という事でしょう。であれば、批判者が用いる「ニセ科学」という語が、どういった意味であるかという事を、精確に理解するのを、心掛けるべきではないでしょうか。少なくとも私は、そうしています。

大切なのは捏造といった倫理的な問題がないかどうか、どれだけ真理、真実といった近づきがたいものに迫っているかということで、科学かニセ科学かという問題ではない。

いや、そうではなくて、ニセ科学はそもそも、現在認められる科学の手続きに則っていないのに、そうしたかの様に言われている、という所が、批判されているのです。問題は、「科学かニセ科学か」、です。

うーん、どうにも、整理出来ないですね。私が、quartaさんの仰りたい事を、ちゃんと掴めていないのかも知れません。

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コメント

他にも、どっかで見た様な感じのコメントがありますね。スルーしましょう。

投稿: TAKESAN | 2007年3月27日 (火) 12:36

追記しました。

もしかすると、ニセ科学の問題が、社会科学的対象でもあるという事が、理解されていない場合が、あるのかも知れません。

私は、現在ニセ科学と看做されているものが、将来科学的に実証されたとしても、それは、現在の「ニセ科学」という評価とは別の問題だ、と認識しているのですが、合っているでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2007年3月27日 (火) 13:39

こんにちは、TAKESANさん。

>私は、現在ニセ科学と看做されているものが、将来科学的に実証されたとしても、それは、現在の「ニセ科学」という評価とは別の問題だ、と認識しているのですが、合っているでしょうか。

合っていると思います。以前に「マイナスイオンの様な健康影響のある何かが将来見つかったら」みたいな話で「ツゲ熱」というたとえ話をしました。

地球上の全ての病気が完全に把握されている訳ではないので、「まだ、どこかに未知の熱病があるハズだから、私はそれを『ツゲ熱』と名付ける」と私が言い出したとしても、医学界は無視するハズです。何らかの新たな症例をきちんと報告したり、新たな病原体を報告したりするのでなければ、なんら医学の進歩に貢献した事にならないからです。そして、もしTAKESANさんが、新たな症例を見つけ出して、「従来のどの熱病とも違うから、自分はこれを『TAKESAN熱』と名付ける」としたら、それはツゲ熱ではなくて、TAKESAN熱であるわけです。

つまり、なんら根拠の無い「思いつき」を世に出しても、それは科学とは言えないので、科学的と人に思わせたならニセ科学であり、そしてその「思いつき」に類似したものが後で見つかっても、科学に貢献したのは、見つけた人である訳です。


投稿: 柘植 | 2007年3月28日 (水) 17:50

新しいエントリーが上がっていますね。

うーん、やっぱり、まだちょっと掴めないなあ。ずれてる気がします。

「捏造科学」は、余り適切では無いと思います。ニセ科学は、意図的(でっちあげる)であるというのは、必要条件ではありませんから。ニセ科学の部分集合としてなら、構わないかも知れませんが。
と言うか、多くのニセ科学を主張する人は、でっちあげの意図は、無いと思います(確かめようがありませんが)。

投稿: TAKESAN | 2007年3月28日 (水) 17:52

柘植さん、今晩は。

ありがとうございます。

ここの所が、意外と理解されていないのだと思います。適切な手続きを踏まずに、「科学的だ」と主張してしまったら、それは、ニセ科学になる訳ですよね。新奇の説を提出した者が実証の責任を負う、という論理ですね。

前に、言及したブログから、「団子の喩え」を拝借して、JosephYoikoさんにもお付き合い頂いて論じたのですが、(具体性は異なりますが)それとも繋がると思います。⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_6e2a.html

投稿: TAKESAN | 2007年3月28日 (水) 18:05

あ、コメント欄復活してる。
トラックバック送り直させていただきますね。

投稿: pooh | 2007年3月28日 (水) 18:22

poohさん、今晩は。

すみません、手数をお掛けました。

投稿: TAKESAN | 2007年3月28日 (水) 19:01

こんばんは.

新しいエントリもみると,要するに「科学ではまだわかっていないものがいろいろあるのだから,安易に "ニセ科学" とか言うな」という,「"ニセ科学批判" 批判」にありがちな主張なのかしら,と思うのですが… それなら,「安易に "ニセ科学" という言葉を使っている人」を見つけて「具体的に批判」したらいいと思うんですけどねぇ.

投稿: たかぎF | 2007年3月29日 (木) 00:01

たかぎFさん、今晩は。

私の理解では、科学とは、現象の論理を実証的に明らかにする方法であり、それによって構築された知識の体系、だと考えています(細かく考えると、キリが無くなりますが)。だから、そもそも「変化」し得るものなのですよね。だから当然、「ニセ科学」の内容も、変化し得る。
なので、quantaさんの仰る様な、「固定化」して使いようが無いのではないかなあ、と。と言うか、quantaさんご自身が、「ニセ科学批判」の内容を固定化しておられる気が。
まだ、ちゃんと掴めてはいないのですが…。

 >それなら,「安易に "ニセ科学" とい
 >う言葉を使っている人」を見つけて
 >「具体的に批判」したらいいと思うん
 >ですけどねぇ.
そう思います。それがあれば、議論もし易くなると思うのですが…。

先ず、「ニセ科学」と「レッテルを貼る(quantaさんの言葉を借ります)」には、「どこがどうニセ科学か」を、説明出来なければなりませんよね。これは、科学的な議論ですから、安易な決め付けがあれば、それ自体が批判の対象になると思います。
で、もう一つは(quantaさんは、こちらを対象に批判しておられると考えられますが)、「科学者による”ニセ科学”という判断を鵜呑みにする」、というのがありますね。これはまあ、そういう事もあるだろうな、としか言いようが無い気がします。どういう語を用いるか、というのとは、余り関係無い気がするんですよね。単なる論理的思考の放棄ですし。「ニセ科学」という語を用いる事によって助長されるとも、思えないです。

投稿: TAKESAN | 2007年3月29日 (木) 00:46

こんにちは、TAKESANさん。

ニセ科学批判を批判する人の論調は大きく2つに分かれます。一つは「これでは難しすぎて、人に読んで貰えない」という論調、もう一つは「抽象的なレッテル貼りは良くない」という論調です。この2つは異なる様に見えて、同じ誤解を根底に持ちます。それは「秩序だっている」と「秩序が乱れている」の意味を等価に近く置いていると言うことです。

ここに5枚のカードがあり、1から5の数字が書かれているとします。このカードが並べられた時に、1から5まで昇順に並んでいる場合の数は一通りしかありません。この昇順に並んでいる状態を「秩序がある」とおいた時に、「秩序立っていない」状態は119とおりあります。それゆえ、無作為にシャフルして並べたときに秩序立つ可能性は1/120しか無いわけです。

「科学的である」というのは、このカードが秩序立っている場合に相当する訳です。そして、今、実際はきちんと昇順に並んでいないのに「秩序立っている」と言い張るのがニセ科学としましょう。「秩序立つ」とは無作為な組み合わせで簡単にできるものではありませんから、秩序だっていないものを「違う」という説明は秩序の説明を含み難しげなものとなりますし、それで説明出来るのは、目の前にある秩序立っていない組み合わせだけであり、他の秩序の乱れた組み合わせを全て説明する事はできません。

同時に119通りの「秩序だっていない」組み合わせを「秩序立っている」1とおりの組み合わせと対比させるためには、119とおり全てを表す表現が必要となる訳です。それが「ニセ科学」といった表現となるわけで、否応なしに「全てにレッテルを貼る」ことになります。

ニセ科学批判に対する批判の多くが、この場合の数の概念を欠いている事から生じている様に思える訳です。

ふと思ったりする訳ですが、ニセ科学批判をする学者に「統計学」関係の人が多い様に思うのは、気のせいでしょうかね?(私は統計学は苦手です)。

投稿: 柘植 | 2007年3月29日 (木) 08:11

具体的に「レッテルを貼る」と云うのがどういうやり方のことを指しているのか、まで論述してもらえれば、例えばぼくも反省できるんですがねぇ。

とりあえず誰かのコピペのせいで、こちらのエントリがらみでちょっと叩かれたり、変なアクセスが増えたりしています。

投稿: pooh | 2007年3月29日 (木) 12:18

「こちらのエントリ」じゃなくて「元エントリ」でした。

投稿: pooh | 2007年3月29日 (木) 12:19

柘植さん、今日は。

私は、言及先にある「固定化」した認識を持っているのは、ニセ科学批判者を批判する側、に思えます。

そもそも、科学と疑似科学の境界設定は容易に出来ない、という事は、当の、科学に関わる方々が最も解っているのだと思いますが、その「解りきった」事を、改めて、「現場の科学者がそれを弁えていないかの様に」、具体例も示さずに批判なさっている(←quantaさんが)所に、違和感を覚えるのかも知れません。

統計解析の知識がある人は、物事に単純に白黒をつけようとしたりする事の安直さを、意識し易いのかも知れませんね。

投稿: TAKESAN | 2007年3月29日 (木) 12:34

poohさん、今日は。

そうですね。もうちょっと、はっきりさせて下されば、議論し易くなると思います。

コピペ、出てきましたね。全く…。

投稿: TAKESAN | 2007年3月29日 (木) 12:43

こんにちは、TAKESANさん。

>その「解りきった」事を、改めて、「現場の科学者がそれを弁えていないかの様に」、具体例も示さずに批判なさっている(←quantaさんが)所に、違和感を覚えるのかも知れません。

なんとなく読んでいて、その部分に近い事で腹が立ってきて、poohさんのところになにやら書いてしまったわけですが、或る意味で探索途中の研究者なんて「ニセ科学」をやっているのか「まっとうな科学」をやっているのか自分でも判断できないんです。「こうやったらこういう事が分かるはずだ」「こうやったらこういうことができるはずだ」の「はずだ」の信念だけでやっている訳ですからね。そして探索した結果を食わえて社会に立ち戻った時には、「えっ本当か?」と言われる立場から当然はじまるわけです。言い方を変えるなら「ニセ物」と思われる所から「いいえこれは本物です」と言い始める訳ですよ。それなりに確信を持つだけの根拠を手にしているから言える訳です。そういう現実の我々を無視した話を読んでいると、腹もたつ訳です。

投稿: 柘植 | 2007年3月29日 (木) 13:07

やはり、現場の人達がどういう活動をし、どう考えているか、という事を踏まえなければ、的外れな批判になってしまうのでしょうね。
ステレオタイプを形成し、それが実情に合致しているかを確かめもせず、批判を繰り広げる場合がありますね。

私も、常に気を付けなければならないな、と思ってます。いもしない仮想的を批判するのは、余り良くありませんね。

投稿: TAKESAN | 2007年3月29日 (木) 13:48

こんにちは、TAKESANさん。

>やはり、現場の人達がどういう活動をし、どう考えているか、という事を踏まえなければ、的外れな批判になってしまうのでしょうね。

その概念的な誤解の一つがpoohさんの所に書いた「思いつく能力」「棄却する能力」の話ね。社会はおそらく「思いつく能力に優れてそれを磨いたものが研究者になって研究をする」と思っているのだろうけど、現実に研究を30年近くやってきて感じるのは「役に立たない思いつきの枝を切り捨てる能力に優れそれを磨いた者が研究者として生き残っている」感じを受けるわけです。思いつく能力なんて、おそらく人にもともと同じくらい備わっていて、磨く必要なんて無いんじゃないかな。ただ悲しい事にその思いつきのうちの意味があるのは1/100くらいだということなんです(笑)。

だからこそ、「こういう訳じゃありませんか?」「こんな事できるんじゃないですか?」と素人さんが「思いつき」を言っても「違いますね」「できませんね」みたいに即座に棄却しちゃつたりする面があるのね。別に悪気は無いわけで、その「棄却する能力」こそが研究者のスキルなんだから仕方ない面があるのだけど、研究者のスキルというのを「思いつく能力」と思っていると、「変だ」と思ってしまう訳です。

投稿: 柘植 | 2007年3月29日 (木) 15:41

一般論として語ってしまうと、「謙虚」に見るべきなのかな、と思います。簡単に言うと、「自分がよく知らない事に対して、余り解った様な事を言わない」、という感じですね。勿論、語ってはいけない、という事では無くて、語るなら、慎重に、注意深く見ていくべきだ、という事ですが。

 >「役に立たない思いつきの枝を切り捨
 >てる能力に優れそれを磨いた者が研究
 >者として生き残っている」
成る程、と思いました。
やっぱり、色んなステレオタイプを持っていて、それを当てはめてしまう事があるのでしょうね。と言うか、私も、色々持ってましたし(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年3月29日 (木) 18:57

http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20070330/1175226823

おー、見事に纏められている。

手書きの図がいいですね(笑)

投稿: TAKESAN | 2007年3月30日 (金) 15:49

こんにちは、TAKESANさん。

>おー、見事に纏められている。

そのとおりですね。特に

>「全体の整合性を維持する」という部分は、ある意味“保守的”な態度ともいえるので、「狭量である」「思考が硬直している」という反応になるんでしょう。そして、科学の発展プロセスをなんかすごくロマンチックに捉えて、「自由奔放な天才が、既存物を全否定して根底から作り変えていく」ようなイメージを持つから、間違った言明を「間違っている」と言うと「むしろ非科学的態度だ」となるのかもしれません。

この部分がとても大事でして、アインシュタインの相対性理論はニュートンの物理学の概念を変えるほどの大発見だけど、ニュートンのやった実験がニュートンの力学や光学理論で説明出来ている事は否定していないわけです。むしろ、ニュートンの発見した光の干渉という現象、それを利用したマイケルソン・モーレーの装置の示した実験結果の上に相対性理論は築き上げられている訳です。もしアイシュタインがニュートンの示した光の干渉現象を素直に受け入れなかったら、当然、相対性理論はできていない訳です。

我々のように、「過去の蓄積上にその整合を崩さずに新しいことを見つける」のが当然の事と思っている者にとって、こういう説明は「うまくできない部分」なんですね。あまりに当然すぎてね。

投稿: 柘植 | 2007年3月30日 (金) 17:00

柘植さん、今晩は。

「保守的」という部分を見て、柘植さんがよく仰る「健常な保守性」を思い出しました。

科学の体系が、膨大な実験や観測によって積み上げられている、というのが、認識されていないのかも知れませんね。その膨大さは、数え切れない程の年月を経て、数え切れない程の人間に拠るものな訳ですよね。ちょっとやそっとで崩れる様な、脆弱なものでは無いですね。

ロマンチックに捉えてしまうのは、科学を具体的に学んでいない、或いは、伝記等によって、「何を為したか」がクローズアップされ、その他の具体的な所が無視されてしまうからかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2007年3月30日 (金) 18:19

 >数え切れない程の年月を経て

何か、変ですね。

「数え切れない程の人間が、長い年月を掛けて」でいいか。

投稿: TAKESAN | 2007年3月30日 (金) 20:19

私も、TB(コピペブログからの)を削除しました。

投稿: TAKESAN | 2007年3月31日 (土) 00:12

http://d.hatena.ne.jp/quarta/20070331/1175320029

 端的に言ってこれに対する各氏の批判の
 論拠は直感と常識によるものとしか言え
 ないだろう。

むう…。

 常識と直感による大雑把な言い方

むむう…。

何でそうなるんだ? それ自体が、激しく直感的で、精密な論理に基づかない意見だと思うんですけど。

投稿: TAKESAN | 2007年4月 1日 (日) 12:46

JosephYoikoさんが、今日のエントリーに書いておられますが、

   「現代の科学では分からない事も
  ある。その分からない事の範囲にある
  話は現在までの科学体系の言葉では説
  明出来ない。」という反論をしてくる
  方に対して、「現在まで築き上げた科
  学の体系が壊れる」論で反論するの
  は、ど素人説得法としてはかなり効率
  悪いですし、理解を得ることは出来な
  いです。

これは、その通りだと思います。そもそも、「現代科学の体系が壊れる」という説得が効くのは、それに対してある程度の信頼を置いていて、体系の強大さや精密さを、それなりに認識している必要がある訳ですね。だから、それが説得力を持つには、「説得される側」が、「科学を学ぶ」べきです。で、それは、地道な作業なんですよね。そもそも科学に不信感を持つ人が、科学をしっかり勉強しようという意欲を持つ事自体、余り考えられない。

実際、水伝は、先ず、言語学とか心理学の対象として、完全にナンセンスなものであると思います。自然科学の論理を持ち出すまでも無い。それは、水伝を批判する自然科学者も、主張されている事です。
声を上げて欲しいですよね。

投稿: TAKESAN | 2007年4月 1日 (日) 13:06

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週末にquantaさんの[科学]ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判をと云うエントリを読んでいたのだけれど、こちらの読解力の問題もあってかどうにも難しくてちょっと言及を控えていた(あいだにTAKESANさんが整理と云うエントリで取り上げられている)。ちゃんと内容を理解できているのかどうか自信がないのだけれど、どうもぼくのような人間のことも云われているような気がするので、言及を試みる。 この方は、「ニセ科学」と云う用語を用いることに対する警告を発していらっしゃる。 各々の記事で挙げられている... [続きを読む]

受信: 2007年3月28日 (水) 18:23

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