身体意味構造
高岡英夫は、著書『鍛練の展開-身体の中芯からの革命』において、「身体意味構造」という、興味深い概念を提出している。高岡の著書から引用してみよう。
A 〈体意変更システム〉というのは、どういうものなのですか。
T 例えば柔道選手が襟を持たれたとすると、相手の手と自分の襟との関係は、「相手が自由自在に扱える手でこちらの襟をコントロールし、強力な力を加えてこちらを攻撃しようとするのに対し、こちらは何とかやられないように防戦する」という、一方的な攻撃―防御関係に陥るのが関の山です。厳密には防戦すらも、既に持たれてしまった段階においては、襟自体を通じて行うことはさして努力の余地がないと考えられています。
ところが大東流の合気柔術では、持たれた”襟”の方が持った”手”を攻撃し、相手を投げ倒したり、潰し落としたりという、柔道の状況とは全く逆の、信じ難いような主客転倒が行われているのです。こうしたシステムはしばしば私が『光と闇―現代武道の言語・記号論序説』で明らかにした〈潜在的擁護システム〉※上位者の権益を護り組織を安定化するために無意識のうちに形成されていくシステム。 を伴うものなのですが、佐川幸義氏の場合は〈擁護システム〉を直接的に利用する度合いが低いという点でも、信頼に足るものと言えるでしょう。
身体には無意識のうちに、意味付けされた地図ができているのです。例えば”手”は”襟”を持って投げる所、”襟”は”手”に持たれて投げられる所、……というように。
A そうした無意識の”地図”が選手の競技力や上達の努力や、さらにはその種目全体の技術の発展を根底から束縛しているということになるわけですね。
T そういうことです。これが〈体意=身体意味構造〉ということです。アスリートの上達や種目の発展には、こうした〈身体意味構造〉を解体構築していく作業が、実は極めて重要なものとして含まれているのですが、多くの人々がその道の専門家を含めこの事実に気付いていないのです。(高岡英夫『鍛練の展開-身体の中芯からの革命』 恵雅堂出版 1993 P199-201)
これは、重要な指摘である。我々は、生まれ落ちて以降、自分の属する様々な文化の価値体系に拠って、生活を営んでいる。それは、社会に広く認められた習慣であったり、家庭独自の価値観であったりが、複雑に絡み合ったものである。私達は、それに従いながら、高岡の言う「身体意味構造」を、形成していくのであろう。武術・身体運動関連エントリーなので、はじめに合気道を例にとって見てみよう。合気道では、通常、最も基本的な稽古として、自分(取り:技を掛ける側)の手首を相手(受け:技を掛けられる側)に掴ませた状態から技を掛ける、という形態を取っている(ここでは、ある程度しっかり掴まれた静止状態から始めるものと仮定する)。通常我々は、上肢帯から手にかけてを、「肩関節を支点にして、物を持ち上げたり、押したり引っ張ったりする」という機能を発揮せしめる部分として、認知しているであろう。ところが、余程の筋力の差が無い限り、動かされまいと掴まれた手を自由に運動させるのは、至難の技である、そこで、身体意味を変更させる必要が生ずる。即ち、「手首は掴まれた位置から動かそうとせずに、肘・肩甲骨・肋骨を、下方へ運動させる」という機能を発揮させるべく、認知の構造を変化させるのである。こうする事により、受けの持ち手に大きな重みが掛かり、「豚の脚を持たされる状態」になり、技を行使する事が可能になる(この辺りの論理は、高岡の、『合気・奇跡の解読』 ベースボール・マガジン社 に詳しいので、参照されたい)。
身体意味構造の形成は、色々な「価値付け」、つまり、「これこれこうすべきである/無い」という論理に、強く依存する。たとえば、「身体をゆらゆら左右に揺らして歩くのはみっともない」、「背筋はきちんと伸ばし、骨盤は軽く後方に反らしたものが、”良い姿勢”である」といった具合に。そういった価値の体系が、各個人の身体意味構造を、形成している。当然、ある集団において共有された価値体系の影響も受け、集団に、ある程度普遍的に見られる構造も、あるだろう。又、それが、専門的に指導を受け、後天的に形成される事も、しばしばであろう。プロのスポーツ選手が、トレーナーに指導を受けたり、武術で師匠に厳しい稽古を受ける過程で、それまでに形成された身体意味構造が、変化するのだと考えられる。それは、当人が、どれだけ指導者に信頼を置いているか、又、指導者の「教え方」等に、依存する。
話を、より一般化してみると、たとえば、「大腿四頭筋は常に収縮し、歩行運動においては、前方に移動する為に、膝関節を伸展させるべく働く」、「骨盤の周りの筋肉は、常に強く収縮させ、”力強い”腰を作る」等が、無意識に構造化されていると考えられる。即ち、身体意味構造は、生理学的にも、普段の筋収縮のあり方等も規定する、認知構造なのである。これを最も一般化したものが、高岡の言う「身体意識」概念に繋がってくるのだろう。
さて、皆さんは普段、自分の身体に、意識を向けていらっしゃるだろうか。歩いている際に、太股の前面と後面の、どちらを主に働かせているか、体幹をきっちり固めて、そこから棒の様に腕と脚が出ていると感じているか、ぐにゃぐにゃに変形し易い物体が運動し、それに従って、鞭の様に手足が動いていくか、等々。その認知が、私達の身体のあり方を、規定しているのである。それを見つめていくのも、大切な事なのではないだろうか。
参考文献
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鍛練の展開―身体の中芯からの革命 著者:高岡 英夫 |
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合気・奇跡の解読 著者:高岡 英夫 |
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究極の身体 著者:高岡 英夫 |
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余談。私は、この「身体意味構造」という概念は、とても重要なのだと思っています(一般化すると、身体意識が重要だという事です)。たとえば「良い姿勢」はどういうものか、とか、「だらけた姿勢」はどんなものか、とか。そういう様々な価値観に沿って、私達は、身体のあり方を、規定しているのだと考えられます。「良い歩き方とは、胸をはって、腕をきびきび振り、踵から足を接地する」という具合に、身体運動が、一つの記号として機能している訳です。これは、普段の生理学的状態とも、密接に関連しているでしょう。たとえば、「歩く」運動を、「膝を一々曲げ、重心が充分前に出てから膝を伸ばし、身体を前に運ぶ」のと、「膝は伸ばし、支持脚の真上に重心が来た際に、大腿を伸展(後方に回転)させ、前方に移動する」と認識するのとでは、全く異なります。歩行運動は、毎日数千から数万歩繰り返される訳ですから、それが筋収縮のパターン等の違いとなって現れる事は、容易に想像がつきます。
勿論、これは、殆ど意図せずに形成される事もあるでしょうし(社会一般に認められた習慣等。歩きとか、「良い姿勢」とか)、専門の、スポーツや武術の指導を受け、自覚し、意図的に変えようとする場合もあるでしょう。こういった意味でも、身体と心は密接に関連している、と言う事が出来ます。
ところで、認知科学でこういった研究はあるでしょうか。いかにもありそうですが。
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