道徳教育の本に水伝。『科学』に脳科学の特集
こなみ日記(2007-02-25):オカルトを信じる道徳教師たち
これはいかんですね。こちらに説明があります(画像もあり)⇒小学校「道徳シート」とエンカウンターで進める道徳 高学年
文脈から切り離して、言葉に力を持たせるべきではありません。それは、他人を傷付ける格好の武器にもなるし、自分自身を切り付ける刃にも、なりかねないのですから。
身体に水が含まれている事と結ぶのが詭弁だとは、考えないのかな。心のやり取りを、物質の振る舞い(しかも、根拠の無い暴論)に求めて、一体どうするのか。
子どもたちは本来,水と同じく無色透明の存在であるかもしれない。素直で,透き通っていて,美しい結晶を形づくることができるだろう。
はっきり言います。これは、子どもを舐めている。全く、子どもの心を理解していない。
興味深いブログを見つけました⇒Clov's Kitchen : 疑似科学と学校-自戒を込めて
考えさせられる内容です。
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これは、読まざるを得ませんね。他にも、坂元章氏の、『テレビゲームが子どもに及ぼす影響』という記事もある様です⇒岩波書店:科学(2007年3月号の紹介を参照)
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コメント
こんにちは、TAKESANさん。
水伝とかゲーム脳の教育関係の問題は、多くの人が「何かおかしい」と思っても「ここが問題」と明確に指摘出来ない部分がありそうなので、私なりに掴んだ問題点を書いてみます。
実のところ、これらの話を用いることが「効果的」であるのが問題であると思えるわけです。なぜなら、その効果は、本来社会にある「ルールの強弱を乱す」事で発生しているからです。つまり、一つのルールを教え従わせることに成功しても、その結果として「社会にあるルールの強弱を乱す」ことで教えたなら、それは害悪であるわけです。
もともと、社会には「生命・健康に関する厳しいルール」から「快・不快に関する一段緩やかなルール」、「好き嫌いに関するTPOにより運用の変わるルール」まで「ルールの強弱」があるわけです。そして教育においては、一つのルールを教え従わせる事以上に、そのルールの厳しさの強弱を身に付けることを考えないとならないはずです。
水伝にしろゲーム脳にしろ、本来、「快・不快」あるいは「好き嫌い」という「生命・健康に関する事柄」より1段、あるいは2段弱いルールを、「相手の身体に悪い」「自分の脳に悪い」というニセ科学言説を加えることで、厳しいルールへの転換を図っているものです。それゆえ、人をルール従わせることに関して「従わないとならない」という気持ちにさせやすい、すなわち効果的であるわけです。しかし、同時にそれは社会を「乱す」要素を内在しているわけです。
kikulogの方で「総理大臣のばかやろう」という発言に対して、「侮辱罪ではなく傷害罪で懲役15年」なんていう話を書いたのはこの意識です。
投稿: 柘植 | 2007年2月26日 (月) 10:00
柘植さん、今日は。
強引に、”「生命・健康に関する厳しいルール」”に結び付け、それの根拠に「尤もらしい科学的根拠(実は全く根拠に乏しい)」を持ってくる、というのが、ニセ科学の論法ですね。そして、”「従わないとならない」”という社会的認知が形成され、それが、「従わない人間は怪しからぬ」という、積極的な排他的認識、即ち不寛容の精神に、結び付くのでしょう。
人は、自分の好き嫌いの「根拠」を、求めたがるのだと思います。安心したいのかも知れませんし、絶対的な価値観があって欲しい、と思っているのかも知れません。だからこそ、「ゲームをやると脳機能が低下する」という、根拠薄弱な言説に、「飛びついた」のでしょう。「ほれ見た事か」と。そしてそれが、「科学(自然科学)」によって根拠付けられていれば(いる様に見えれば)、「自分が思っていた事は客観的に正しかったのだ」という、確信を抱かせるのだと思います。自分が考えていた事が正しいと確信した時には、「快感」の様なものが、得られるのでしょうね。だから、それを相対化する為に、合理的・論理的思考を鍛えるべきなのですよね。
これが、「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めてはいけない」というのを、きくちさん達に強調させる、理由なのでしょうね。言い方を換えると、「好き嫌いを正当化する理由を、自然科学に求めてはいけない」、とでもなるでしょうか。
投稿: TAKESAN | 2007年2月26日 (月) 13:04
>きくちさん達に強調させる
これは、「きくちさん達が強調する理由になっている」、という意味です。
投稿: TAKESAN | 2007年2月26日 (月) 13:06
こんにちは、TAKESANさん。
>強引に、”「生命・健康に関する厳しいルール」”に結び付け、それの根拠に「尤もらしい科学的根拠(実は全く根拠に乏しい)」を持ってくる、というのが、ニセ科学の論法ですね。
そう言っても良いのだけど、順番としては「尤もらしい科学的根拠」を持ってくる事で、「生命・健康に関する厳しいルール」への結びつけがとても容易になると言うことなんですね。
ここに、きくちさんが言うところの「科学の普遍性」、私が言うところの「人間に返られない事」という自然科学の特徴のイメージが強く反映される訳です。
例えば「この化合物の蒸気50 ppmに10分間暴露されると、ほぼ100%の人に障害が起こり、50%の人は死ぬ」なんて自然科学的な知見というのは、どこでどうやっても起こる事なのね。その蒸気を出した人が故意でやっても起こるし、何か芳香剤と間違えて出したのでもやはり起こる訳です。上品なレストランでも起こるし、下町の居酒屋でも起こる。1回目でも2回目でも100回目でも同じように起こる。これが自然科学の普遍性というものなんです。
このTPOも本人の意図も問わずに起こるというイメージが付いてくるから「説得力」があるわけです。そして説得力を持たせるために、自然科学的な根拠を捏造する必要があるわけですね。
これこそが、きくちさんが「不寛容」という部分なんです。
投稿: 柘植 | 2007年2月27日 (火) 17:37
柘植さん、今晩は。
記号論に、「エティック(イーティック)」、「イーミック(エミック)」という概念がありますね。エティックは、没価値的・汎体系的論理、つまり、自然科学の理論等ですね。イーミックは、恣意的に形成された価値体系で、文化や社会等でしょうか。
ニセ科学は、イーミックな価値観の絶対性を求めようとして、エティックな論理に縋る訳ですね。自分達が拠って立つ体系が「正しい」と思いたい(顕在的にしろ潜在的にしろ)のだと、考えられます。だから、本来、「好き嫌いに関するTPOにより運用の変わるルール」(柘植さん)であるものを、最も普遍的たる自然科学的論理(らしきもの)で、根拠付けようとしているのでしょうね。
投稿: TAKESAN | 2007年2月27日 (火) 18:25
TAKESAN、こんばんは。
きくちさんのところでも書きましたが、この本の編集の諸富氏は、思いっきりニューエイジなんですね。教育系の雑誌なんかに結構出ていて、まっとうなことを書いていたので、いい人だと思っておりました。
まったくの不勉強で、お恥ずかしい。
「教師を支える会」なんて作って、結構信頼している教師も多いようなので、ちょっと影響が心配ですね。
投稿: ドラゴン | 2007年2月27日 (火) 21:34
こういう書籍に水伝が載ってしまうのは、まずいですね。
結構、色々な書籍を出されているみたいですね。しかし、水伝は無いですよね…。
あの本を読んで、先生方がどう反応するか、ですね。
投稿: TAKESAN | 2007年2月27日 (火) 23:45