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2007年1月30日 (火)

メモ:身体意識仮説の検討

  • 身体意識、即ち「体性感覚的意識」の定義:(狭義には)体性感覚によって構成される意識系(詳しくは、高岡英夫氏の著書を参照の事)。高岡によれば、意識は、視覚意識・聴覚意識(併せて「視聴覚意識」)・体性感覚的意識に分類される。
  • 高岡は、身体意識を発見し、論理構造を解明した、と主張するが、それは妥当か。解明とは、どのレベルでの意味か、という事を考える。高岡は、著書によって、身体意識論が「仮説」である事を、明言している。これは押さえておくべきである。「(前略)しかしながら自然科学的物質科学の立場からは、身体意識が意識であるからには、それはそういうものがあると究極的には仮定されるに過ぎない。言葉の正確な意味で推論である。その仮定や推論が真理という評価を得るには、これは歴史の進歩を待つしかない。」(DSが解く達人のメカニズム―現代武術8つの極意 P223)、”(前略)ただ厳密科学的に言えば、身体意識というものが存在するというのは推測の域を出ていません。これは仕方が無いことです。私も科学者の端くれですから「身体意識は存在するに決まっているだろう。分からない奴には分からないんだ。」と言うつもりはまったくありません。”(格闘マガジンK Vol.6 P77)※高岡氏は、いわゆる疑似科学的な、意識がダイレクトに対象に伝わる、とか、時空間を超える、等の主張をされていますが、私は、明確に言って、その立場には反対です。身体意識は、概念としてとても重要ですが、それは、心理学や認知科学によって解明すべき対象であると考えます。
  • そもそも、身体意識がある、と、断言出来るか。出来るとすれば、それはどの様な根拠に拠るか。断言出来なくとも、心概念等と同等の位置づけを行う事は出来るか。感覚や知覚現象を認めれば、身体意識も認めて良さそうではある。
  • 身体意識が幾何学的構造(ストラクチャ)を持っており、その構造に規定されて身体運動が発現する、という論理はどの様に論証するか。他の、クオリティとモビリティは、どう論証するか。
  • 心理学的にはどの様に説明されるか。感覚や知覚との関連はどうか。身体図式や身体像とはどう関連するか。認知科学的に説明出来るか。※ググったり論文検索をすると判りますが、「身体意識」という概念自体は、結構用いられている様です。ただ、高岡氏の定義に従っているものは、見た事が無いです。因みに、身体意識が現在の定義で用いられるようになったのは、『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密 』辺りです。それ以前は、身体意識も「ディレクト・システム」も、多義的に用いられています(現在の定義から導出される機能が、とでも言うべきでしょうか。「ディレクター」が言語装置として用いられている所もあり、少々曖昧です)。
  • かなり長いですが、引用します(『秘伝』誌連載:『極意の世界はこうなっている 第四章 身体意識とは何か 一、身体意識発見の経緯』参照)。

高岡 人間の感覚には、医学・生理学的概念として、視覚器と聴覚器と、それから味覚器なども含めた体性感覚器というものがあるわけです。そして、それぞれの感覚器から得られる原情報を基にして、それぞれ特有な意識系というものが生まれるわけなのですが、それに私は「視覚意識」「聴覚意識」それから「体性感覚的意識」という3つの意識系を定義付けしたわけです。それで、この3つの意識系は、それぞれ特有の構造と働きを持っています。これについての細かい話は今は抜きにして、そのうちの「体性感覚的意識」、つまり体性感覚から得られる情報を基にして得られる意識系が「身体意識」であるということなんですね。 だから身体意識というものは体性感覚情報を基に成立している意識系のことであるということです。だからそれに近い言葉で皆さんが日常的に使っているのが、「身体の感じ」とか「身体感覚」とかね。そういうものは、学問的概念とはいえないけれども、私が定義した身体意識に近いものと言っていいでしょう。

――「身体感覚」というものと、ここで定義された「身体意識」というものの違いについてもう少しお話いただけますか。

高岡 まず、もし「身体感覚」という言葉で、私が言っている身体意識の概念を表そうとしたならば、はっきりと間違いであると言えるでしょう。感覚というのは、各感覚受容器の発する原情報でしかないわけですよ。それを人間の脳で情報処理することによって、初めて人間に何らかの影響を与えるものになっていくわけです。その結果生まれるものが私が言う身体意識であるわけですから、受容器から生まれる原情報である感覚と身体という言葉を結びつけて、身体感覚という言葉で身体意識を表そうとすることは学問的には、明らかに間違いですね。それで、現実には身体感覚とか、身体の中の感じとかね、場合によってはボディーイメージとかね、そういった言葉で私が定義した身体意識の概念に近いものを表そうとしている人はいますね。それは現在かなり各分野で見られるようになってきましたが、言葉の選び方としてはやはり無理があると言えるでしょうね。

――そこで大事なのは、「意識」ということになるわけですね。

高岡 そうです。単なる感覚ではなくてね。だからこれは生理学・心理学的に極めてきちんと押さえていかなければならないところですね。単なる感覚ではないんですよ、私が発見したものは。私が見つけた概念というものを言葉で、つまり体性感覚的意識というものを短い言葉で表現しようとしたら、「身体意識」か「体性意識」しかないと思いますね。日本語では。

感覚と知覚の区別とか、認知との関連等は、難しい問題だと思います。無意識をどう扱うか、という点もありますし。因みに、この後には、体性感覚的意識の普遍性を論ずる文章が続きます。言語にも身体意識がある、の様に(なので、体性感覚「的」意識)。ここまで来ると、評価が分かれるでしょうね。上にも書いた様に、私は、それは認められないです。疑似(ニセとまでは言えない。一応、自身で、仮説と主張しているから)科学に通ずるものがあります。

しかし、こんな文章を書いて、一体誰が読むんだろう、と思ったり…。

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コメント

おひさしぶりですが、ちゃんと読んでいますよ。

我がブログは当方体調崩したため若干更新滞っておりますが、いずれ、また充実させていきます。

「一体誰が読むんだろう」なんてふてくされ? ないでくださいね。いつも思考の種、ためになります。

また書きに来ます。

投稿: Coach*Romi-kun | 2007年1月30日 (火) 22:06

Coach*Romi-kunさん、今晩は。

そう言って頂けると、とてもありがたいです。

このエントリーに書いてある様な事は、ご存知の通り、かなり「マニアック」な分野なので(笑) ふてくされる、というよりは、こういう内容を読んで、面食らわないかなあ、という感じですね。「一体誰が読むんだろう」というのは、「マニアックだという事は一応自覚してますよー」、というサインみたいなものですね。

 >我がブログは当方体調崩したため若
 >干更新滞っておりますが
どうか、お大事になさって下さい。

 >いずれ、また充実させていきます。
是非! 楽しみにしております。

投稿: TAKESAN | 2007年1月30日 (火) 23:02

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