« からだ | トップページ | 調べてから呼んでいるのかな »

2007年1月17日 (水)

論理・科学・感覚

PSJ渋谷研究所X: 実のところ「ニセ科学問題」とはなにが問題なのか

仰る事に同意です。

ニセ科学的言説ってのは非論理的だというか論理的破綻がつきまとうというか不合理・非合理だというか、つまるところ「言ってることがメチャメチャ」なわけだ(部分的にであれ)。

ニセ科学は、部分的に整合性がある所が、厄介ですね。で、信じる人は、その部分に焦点を合わせて、他を無視してしまうのでしょうね。又、ニセ科学が対象にする文化に対して無知な場合、それへの分析を怠ってしまう事もあります。たとえば、ゲーム脳では、ジャンルの多様性や、ゲーム内での様々な展開があるのを知っていれば、なんかおかしいぞ、となる筈なのですが、それを知らない人は、鵜呑みにしてしまうという。そこに、元々「ゲームの時間を減らしたい」という願望があれば、そもそも、ゲームについて調べようなどという気にすらならないのでしょう。

それを「個人的信念」で留めておかない、あるいは教育の現場に持ち込む、あるいはマスメディアで普遍的事実であるかのように垂れ流すってのは、どう考えても問題ですよね(但し書きがあったって、そこに気づかない人がいっぱいいるのだけど、それはまた別の問題だろう)。

この、ニセ科学主唱者の「動機」の問題というのは、難しいですね。それが、計画的なのか、それとも確信的なのか。当然、どちらにしても、批判されてしかるべきですが。

一般に、「論理的でない」とか指摘すると「冷たい」と言われたり「理屈よりも重要なものがある」だのという反論がある。

これは、社会的認知の問題ですね。「論理より感覚を大切に」というのを、その内容も吟味せず、まるで標語の様に使っているのだと思います。これも、きっかけは様々でしょう。自分が憧れている人がそういっていたから、本に書いてあったから、等々。発言力の強い人が、生半可な知識で、科学批判等をする影響も、結構あるのではないかと思います。最近私が色々書いている事にも繋がります。これは、心理学や社会科学の対象ですね。

それも含めて「『論理的』ということへの信頼が後退している」というような問題があるようにも思う。

「後退」と言えるかどうかは、難しいですね。後退というのは相対的な評価ですので。ただ、現在、一定数そういう人がいる、とは言えますね。又、ニセ科学について言えば、「論理的」と言うより、「科学的」と言った方が適切な気もします。論理的な能力が高くても、科学的知識に乏しい場合には、ニセ科学を信用してしまう場合もあるかも知れません。又、自然観の問題もありますね。水伝の場合には、明らかに、目的論的自然観ですが、それを信ずる人は、自然科学的論理を全く無視して、水伝を信用してしまうのでしょう。

そういえば、以前、寒天が売り切れ続出になった事がありましたねえ。凄い効果だ。

|

« からだ | トップページ | 調べてから呼んでいるのかな »

「メディア論」カテゴリの記事

「文化論」カテゴリの記事

「社会論」カテゴリの記事

「科学論」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
> 「論理より感覚を大切に」

 についてですが、その感覚(や直感も)が今までその人が身につけてきた「知識」に大きく影響されることは重要だと思います。
 つまり、知識を積み上げる段階で、正しいものに拘っていない人が「感覚」を頼りにしてしまうと、間違った知識から得られる答えしか得られないということです。

 逆に、正しい知識を積み上げてきた人の感覚は、驚くほど事実を読んでいたりするわけですね。

投稿: newKamer | 2007年1月17日 (水) 16:02

newKamerさん、今日は。

仰る通りだと思います。直感と言っても、その人が持つ知識の枠組みに規定されるので、それを無視すべきではありませんね。

誰かが言っているから、という理由で、それを鵜呑みにしてしまうのは、とてもまずいですね。論理的(或いは科学的)思考を放棄する為の方便になってしまっている様に思います。

投稿: TAKESAN | 2007年1月17日 (水) 16:51

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/4960154

この記事へのトラックバック一覧です: 論理・科学・感覚:

» 目的論的自然観 [Chromeplated Rat]
渋研Xの「実のところ「ニセ科学問題」とはなにが問題なのか」と云うエントリを読んでいて、あれこれ考えながら、そのままTAKESANの「論理・科学・感覚」と云うエントリに辿り着いた。そこで使われていたのが、表題の言葉。正確に意味するところは知らないのだけれど。 高校生の頃、集団結婚式で有名な韓国発の某キリスト教異端的新興宗教の不況拠点に行ったことがある。その宗教(当時は今のように「教会」を名乗らず、「運動」の名で呼ばれるのが一般的であったけれど)の信者にされつつあった友人に誘われたのだ。 マンシ... [続きを読む]

受信: 2007年1月17日 (水) 23:31

« からだ | トップページ | 調べてから呼んでいるのかな »