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2007年1月29日 (月)

何の役に立つんだ

学校の勉強が、何の役に立つかと問われれば。

「自分で調べれば?」

学校の勉強なんて何の役にも立たない、と言われたら。

「ふうん、勉強してないのに、よくそんな事判るね。」

何で勉強しているのかと、問われれば。

「面白いから。」←勉強していない人では、使えない。

そもそも何故、そういう質問が出るのか。

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実際、もし、身近の子どもに、「何で勉強しなくちゃならないの?」と聞かれたとすれば、「面白い」というのを、先ず言うと思います。後は、子どもが好きな物に絡めて説明するでしょうか。ゲーム好きなら、どういう仕組みでCGが出来ているか、とか、テレビなら、どうやって映像・音声信号をやり取りしているか、とか。考えさせる、という事ですよね。「何でテレビが映るか知ってる?」と。「真面目」に「何の役に立つか解らない」と考えている子どもは、「ああ、そうだったのか。」と、深く納得するかも知れません。勉強嫌いの子は、別に、単なる怠け者では無いのですから。

一番嫌なのは、何かの役には立つだろうから、取り敢えずやっときなさい、という答えですね。そういう答えられ方をすると、子どもは思うのです。結局ちゃんと答えられないんだな、とか、こっちの事を、ちゃんと考えていないんだ、とか。因みに、(あくまで個人的な意見ですが)、「受験に役立つから」というのは、余りよろしくない答えだと思っています。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

回りくどい話になってしまいますが、「なぜこれをしなくちゃいけないのか?」とか「これにどんな意味があるのか?」と問う時というのは、「これ」をやるのが辛いとかしんどい場合ですよね。
草野球に熱中している人は「野球が何の役に立つのか?」とか、テニスが趣味の人が「ボールを追うことにどんな意味があるんだ?」とは問わない。それが楽しい間は「意味」は問題にならない。
人生も同じで、ほんとに何か好きなことに没頭することがある人はその間「人はなぜ生きるんだ」とか「人生の意味、価値とは何だ」とか考えない。
逆に言うと人間にとっての「意味」とは突き詰めると「楽しい」と感じること=「快」なのではないか。
もちろん快と一言に言っても背徳的快楽とかアンビバレントな要素も含むけど、それでも色んな人が思い描く「意味=価値」には共通して「快=楽」がある。
とすると「何が意味か」と問うのでなく「自分が真に喜びを実感できるのは何か」と問いを"転換"するしかない。
勉強もそれと同じで、知る、分かる喜びで人生が豊かになる(色んな意味で)ということをどう実感させるかに掛かっているように思います。
Tそういう意味で、AKESANさんのおっしゃるように、子供の好きなもの、身近なものに引き寄せて教えてやることはとても大切で有効な方法ですよね。

投稿: 夢草の剣 | 2007年2月14日 (水) 23:01

訂正します。
「そういう意味で、TAKESANさんのおっしゃるように」
お名前誤表記すみません。(;)

投稿: 夢草の剣 | 2007年2月14日 (水) 23:03

たとえば仕事であれば、労働への対価が得られる、という、とても解り易い理由がありますが、学校で行う勉強だと、「将来役に立つから」という理由を言われても、実感も得られないし、「本当に役に立つの?」という疑問すら出てきます。
こういうのって、子どもに限らず、大人でもそうですよね。まあ、この先役に立つかも知れないからやってみれば、と言われても、動機付けとしては、とても弱いものだと思います。
一昔前の典型的なものの考え方だと、良い会社に入る→良い大学に入る→良い高校に入る、という、イメージし易い「道筋」があって、その為に頑張ろう、という気持ちになったのかも知れませんけれども、そもそもそういう目的に価値を見出せない人にとっては、全く意味が無いのですよね。
それが、外発的な動機付け(報酬によって興味を持たせる)の、弱い所だと思います。一部には有効かも知れませんが、説得力を全く感じない人もいる、という。
ですから私は、内発的動機付け、つまり、「それ自体が面白い」と思わせる事が出来るかどうかに、かかっていると思います。一般的な言い方をすると、「知的好奇心」を喚起する、という感じでしょうか。

小学生の頃は勉強好きで、中学以降、「何でこんな事しなきゃならないんだ?」と思い、高校では、「資格試験に関係無い教科はやらなくていいや」と思った人間、そして、その後に、様々な分野の学問に興味を持ち、「勉強しておけば良かったなあ」と痛感した人間の、経験談でもあります(笑)

何か、「勉強しない事が正しい」かの様な、意味不明な認識を持っていたりしたのですよね。書いていて恥ずかしくなりますが。

投稿: TAKESAN | 2007年2月15日 (木) 01:08

>「勉強しない事が正しい」かの様な、意味不明な認識を持っていたりした

あっ、仲間だ(爆)
1学年かそこら上のきくまこ氏は幼少から成績優秀だったんですが、その彼が小学校か中学校の頃に「家では別に勉強とかしてない」と言っていて、それを聞いて「ほらみろ、それでいいんじゃん」と思ったものです(^^;;
しかし、彼は「授業中に集中して聞くからそれで覚えちゃう」と言ってたことはなかったことにして、教科書のスミにパラパラマンガなど書いていましたが(わはは)。

まあ、それはともかく、小学校ぐらいだと「それ、知っている」でかなりの分は用が足りちゃったわけですよね、少なくともわれわれの時代は。いまはそれじゃ用が足りないような「考える力」を要求するような授業実践も進められているはずなんです(まだ一部なのかなあ)。
で、そうなると動機づけがものすごく重要になって来ているようです。努力することの意味を知って、納得して努力できるようになればいいのだけど、小学校なんかではそれ以前の「読んだり解いたりすることが平気になる」とか「学習を習慣づける」みたいなことが課題なので、どうしても「やると楽しい」が大事なようです。
TAKESANさんもどっかで言及していたどんぐり倶楽部とかの「絵解き算数」なんかは「解く楽しみ」とか「知る楽しみ」っていうことをすごく大事にしているようですね。って、どんぐり倶楽部のことはよく知らないのですが、その影響を強く受けている「道草学習のすすめ」というブログの受け売りですけど(汗

投稿: 亀@渋研X | 2007年2月15日 (木) 15:35

うーん、きくちさん、カッコイイですねえ。
でも、私も「家では勉強してなかった」です。これは共通点ですね。お陰で成績が落ちた、という、些細な違いはありますが。←推測すると、「家でも学校でも」勉強していなかった事が、原因と思われます(笑)

自分の小学生の頃なんかを思い出すと、「物を知っていると優秀だと見られる」というのが、動機付けになっていた気がします。何の報酬も無いのに、魚偏の漢字を50個くらい憶えてみたり(笑) 小学5年生の時に筆記体を憶えてみたり。多分、「すげー」と言われるのが、最大の報酬だったんでしょうね。ある意味「ゲーム感覚」(←私はこの言葉に、ネガティブな意味は付与しないです)ですね。褒めて貰ったり、同級生から賞賛されたり、良い点を取ったりするのが、ゲームで良い成績を取るのと、同じ様な感じだったのだと思います。それと、物を知る事自体の楽しさを知っていたので、結構良かったのかなあ、と。

で、それが中学になると、「物を知っているだけじゃ駄目だ」→「勉強出来るだけじゃだめだ」→「勉強する必要が無い」、という、今考えても、なかなか凄い論法で、勉強しない事を、正当化していた様に思います。きっかけとしては、中学に上がって、急に内容が理解出来なくなった、というのもありますね。
ものを知る楽しみ自体は、いつも持っていたと思うのですが、「勉強」、つまり、「学校で習う教科」そのものを、忌避していたのでしょうね。多分、フィクションの登場人物とか、芸能人がテレビで、「勉強なんか出来なくてもいい」、と言うのを、正当化の根拠にしていたのでしょう。

投稿: TAKESAN | 2007年2月15日 (木) 16:15

そういえば、「勉強出来る人が賢いとは限らない」という認識も、持っていましたね。
これは、劣等感且つ優越感ですね。

投稿: TAKESAN | 2007年2月15日 (木) 16:17

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