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2006年12月26日 (火)

何を求めるか

プロ合気道家トム・モリゾーの上手くなるブログ道場:合気道って何 その5

コメント欄での議論が、実に興味深いです。

武術の本質論、つまり、「どうあるべきか」というテーマの議論は、やはり難しいものがあります。武術のどの側面に着目するかによっても、その回答は異なるでしょう。身体能力の開発法としての面を強調するか、又、あくまで「術」、即ち、襲われた際にどうするか等の、実用的側面を重視するか。或いは、格闘技としての面を考え、他の格闘技に対処が出来るか、という所が重要だと捉える人もいるでしょう。

私は、基本的には、トム・モリゾーさんの仰る立場に近いと言えます。武術に何を求めるかは、正に、「人それぞれ」としか言いようが無いと思います。何が正しいとは、断言は出来ないし、するべきでも無いでしょう。それを踏まえた上で、自分の目標を定め、そこに達するべく努力すべきではないでしょうか。

その上で、私個人としての考えを述べますと、私自身は、親爺ファイター さんが仰る事に、大部分同意します。武術を、暴力から身を護る手段だと考えるのは、武の定義からしても妥当ですし、既成の武術を単なる身体開発法と捉える必要など無い、と考えるのも、同意出来る部分ではあります。武術でなくとも、幾らでも、開発法は存在するのですから。実際に誰かに襲われる、という場面は殆ど無いにしても(現代社会で護身術などやっても、余り役立てる機会が無い、とも考えています。そもそも、そんなものを役立てる機会が多い様な社会は、来るべきでは無いですし。ですから、多分に「趣味の問題」でもある訳ですが)、「他者の攻撃から身を護り、相手を制する技術」として武術を捉えるのは、重要な視点だと思います。ただ、どこまでそれを追求するか、どこまでの汎用性を求めるか、という部分は、やはり、それぞれの考えでしょう。たとえば、道端で襲われたとして、そこに棒切れが落ちていたとします。この時、剣術や杖術等をやっている人なら、それを有効に使えるでしょう。しかし、体術しか習っていない人ならば、それを武器として認識出来ないので、使えないという事になります(この喩えは、高岡英夫氏の著作を参照)。ですから、「武器技は必要か否か」という議論も起こります。突き詰めるならば、銃火器の使用法にも精通していなければならない、という考えにもなりうるのです(そういう武術家もいます)。

従って、そもそもそういう線引き自体、恣意的であると考えます。ですから、私の意見としては、先ず、指導者なり体系なりが、何を目指しているかを調べた上で、批判を行うべきだと思っています。健康体操として合気道を行っているならば、それはそれで、構わないと思うのです。そういう人に対して実戦性と説いても、仕方がありませんし、そもそも失礼です。ですから、実戦性を触れ込んでいる人に対して、「そのやり方では駄目なのではないか」と言うべきなのだと考えています。つまり、(象徴的な書き方ですが)「自分は強く掴まれても動ける」、或いは、「相手がどんな攻撃をしてきても捌ける境地を目指している」と主張している人に対して、「そのやり方で果たして達成出来るのか?」と批判するのは、構わないという事ですね。その場合には、何を目指すかという共通認識があるので、それについて議論を深めていけば良い訳で。しかし、「自分は運動不足解消の為に合気道をやっている」という人に、「実戦に使えない合気道など意味が無い」と言ったり、逆に、「実戦に使えてこそ武術だ」という人に、「今の時代にそんな事考えてもしょうがないよ」と批難するのも、どちらも的外れではないかと思うのです。

余り、「こうあるべきだ」と強く思うと、排他的な認識を持ってしまいがちです。色々な価値観を認め、多様なあり方を許容するのも、重要ではないでしょうか。

因みに、私の武術に対する認識としては、身体開発:実用性が、6:4といった所でしょうか。当然、これらは相互作用しますし、割り切れるものでもありませんが(これがとても重要。実用性は、ハードウェアとしての身体のあり方に依存する)。結構適当です。

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コメント

むむ、議論が続いていますが、何やら雲行きが怪しい…。

投稿: TAKESAN | 2006年12月26日 (火) 17:52

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