理屈・理論・理合
古流武道を後世に伝える難しさ 3 - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)
実際に動く事を疎かにして、考えるばかりではいけない、というのを戒める、その気持ちは解るのです。しかし、それを主張する余り、科学的分析に対して、嫌悪の様な感情を抱くべきでは無いと考えます。以下、引用文は、強調等ははずします。「ある剣術流派の故ご宗家」の発言は茶色で。
現代武道だけでなく古流においても技一つ一つ科学的な分析をして理論を確立させないと受け入れられないのが現状です。
「理論を確立させないと受け入れられない」のが本当かどうかは、よく知りませんけれど(そうであれば、好ましいです)、何かをやるに当たって、それが論理的に体系づけられているか、又、それが科学的に妥当であるか、という所を確認するのは、極めて健全な態度と言えます。
最近の若い方々は、このようにした方が有効なのではないかとか、こうした方が理にかなっていると言って、勝手に理合いを無視して技を変えてしまっています。
古流の技は先人たちが自分の命を懸けて作ってきたものであり、長い年月をかけて研ぎ澄ませて理合いとして私たちに伝えられているものです。
中途半端に理解している段階で、自分勝手に技を変えたり、というのが駄目だというのは、確かにその通りなのですよね。それは、どんな文化だって同じです。一般論ですから。ただ、ですね。それを言う為に、「理合」を用いて、とにかくやっていればいずれ解る(出来る)、とするのが、果たして妥当か、という事なのです。つまり、間違っている事をやっているのを見て、それをちゃんと指摘出来るか、又、その指摘は正しいか、それは、何を根拠とするか、という意味です。
物事には必ず順序があります。
そしてその順序に従って進んでいかなければ必ず間違った所へ到達してしまいます。
また順序を飛び越えて進んでいくと落とし穴に嵌ります。
正しい順序で確実に進んでいかない限り、決して正しい結果には辿り着けません。
それはそうです。正しい順序を守らなければ正しい結果にならない、というのは、当たり前です。ですから、正しい順序とは、何を以って正しいと言えるのか、他に合理的なやり方は無いのか、という事を、考えなければならないのです。果たして、武術関係者の中に、それをやっている(やろうとしている)人が、どれ程いるでしょうか。
古流武道では理論・理屈は必要ありません - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)
古流武道は”理論・理屈”ではありません。
こういう事は、書くべきでは無いのですよね。恐らく、「理論・理屈」と「理合」は違う、という意味なのでしょうけれど、科学的分析をすべきでは無い、という文脈での使用なので、どちらにしても、妥当ではありません。
今、昔から伝えられてきた武術が科学的に研究されるようになって、それぞれ理論が確立されることによって非合理的な点が少なくなり、合理的になって発展してきているように言われているようです。
これは、今一つ意図を掴みにくい文章ですが。「非合理的な点が少なくなり、合理的になって」というのは、体系が洗練されて、より優れたものになった、という意味でしょうか。それとも、武術のメカニズムが科学的に解明されてきている、という事でしょうか。
また現代武道の技術は、一つ一つ科学的な分析をして理論を確立させないと、世間には受け入れられない状態です。
そのため自分の体を動かして覚えることが少なくなり、頭を使って「力学的に考えると、こうした方が良いはずだ。」とか「こうした方が合理的だ。」と考え、先人たちが命を懸けて作り出してきた技を変えてしまっています。
上にも書きましたが、「一つ一つ科学的な分析をして理論を確立させないと、世間には受け入れられない状態」なら、それは望ましいと思います。多分、そういう傾向にはなっていると思われます。ここでは、先人が作り上げた体系が、そもそも高い合理性を持っている、という前提があります。本来、それ自体を論ずるべきであり、それを分析するのが、他ならぬ、科学です。ところで、頭を使う事と、身体を動かす事は、相反しません。時間配分の問題なので、そういう傾向にはあるかも知れませんが。しかしそもそも、「頭を使わずに、身体だけ動かしていれば良いのか?」という疑問が出てくる訳で。
でもいざお互いに真剣を持って命懸けの真剣勝負を行うとしたらどうでしょうか。
これは、全くナンセンスな喩えです。現代剣道は、そもそも「真剣を持って命懸けの真剣勝負」など想定していません(この様な議論が成立するのは、現代剣道家が、現代剣道の体系の学習によって真剣の扱い方も習熟出来る、と主張した場合ですが、その様に言う剣道家がどのくらいいるかは、判りません)。又、現代社会において、真剣での戦いを想定するなどというのは、武術に全く関心の無い人からすると、かなり困惑する文章でしょうね。
古流武道では”理論・理屈”を二の次にして、とにかく師の教えるままにひたすら稽古をします。
そのため”理論・理屈”は知らなくても自分の身を守る技術は完全に身に付けることが出来ます。
ここなのです。ここに、擁護システムの存在を窺う事が出来るのです。即ち、「師の教えるままにひたすら」、「”理論・理屈”は知らなくても」、等の教示によって、修行者の分析的・反省的思考を鈍麻させ、上位者の教授方法、又、体系そのものに対する懐疑的精神を、失わせるのです(高岡英夫氏の著作参照)。「知らなくても自分の身を守る技術は完全に身に付けることが出来ます。」ならば、論理的には、稽古したものは、全員正しい技術を身に着けた、と言えますが、果たしてそうでしょうか? 勿論、そんな事はありません。それは、承知している事でしょう。では、「何故身に着けられないのですか?」と問われれば、上記の様な認識を持っている人は、どう答えるでしょうか。簡単です。「修行が足らんのだ。」、「やり方が違っていたのだ。」です。ね、恐ろしい矛盾でしょう? 理屈を知れば身に着けられないと言い、身に着けられない人には、「稽古が足りない」、「頭で考えているだろう」と言うのです。
私は、頭で考えもせず、ひたすら身体を動かす稽古、というのが、最も駄目な稽古だと考えます。それだと、センスの良い人が、「たまたま」上達する、という事になります。それでは、何のために武術をやるのでしょう?
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