前提条件の違い、文化としての武術
理屈を言う人は上達しないであろうバイアス、の形成での、A-WINGさんのコメントを受けて。
現代の武術家が勘違いしているのが、武術は命をやり取りする中で発達してきた文化だ、という事に対する過大な評価(自負)です。
現代において、武術の技を実際に行使する、というのは、ルールを決めた競技会(試合)でなければ、街中での喧嘩や、暴漢に襲われた時の護身くらいしか機会が無いので、そもそも、「本気でやる」という事が、殆ど皆無に近いのですが、かと言って、街で実力を試す、等というのは、全く反社会的行動であって(一部に存在しますが)、それは許されざる事です。ですから、試合の無い武術・武道にとっては、実力を試す機会というのは、一般的には無い、と言えます。つまり、比較的、戦闘が身近であった時代とは、そもそも前提が異なるのです。従って、ちょっとしたミスが、即、死に繋がるという、レース等の世界の方が、圧倒的に厳しいと思います。
この様な論理を踏まえずに、武術・武道を、他の文化より優れたものと看做してしまう、という人もいます。こういった、自分が携わっているものは優れていて、他は取るに足らない、という、現場埋没的認識は、外から見ると、滑稽ですらあります。
余談。このブログでは、武術をやっている人に対して、「こういう認識を持つ事がある」、という書き方をして批判をする事が、よくありますけれども、それは、殆ど全て、自分が陥っていた認識でもあります。つまり、埋没的・独善的・排他的な認識です。他の文化を知ろうともせず、自分が学んでいるものが優れていると考え、他人を見下す、という、著しく客観性に欠けた考えです。これは、とても不健全です。武術をやっている人がこういう認識を持ち易いかどうか、などというのは、社会科学的な対象であって※、断言などするつもりは全くありませんし、他の文化に関わる人でも、そういう認識を持つ人は、沢山います。あくまでも、武術を通してその様な認識を持ってしまった事例として(それと、自分が今まで読んだり聞いたりした、著名な武術関係者の意見にも、そういう傾向が見られるという、印象)、お読み頂ければ、と考えています。
※元から持っていた性格傾向や、始めた年齢、就いた指導者の方針、創始者の教え、等、様々な因子が関与しています。実証的に研究すれば、どの様な傾向が見出されるかは明らかになるでしょうけれど、直ちに、「こうなる」とは言えません。そこは、他の文化の社会科学的研究と、同じ事です。私がよく言及する、「武道・武術関係者は、科学的・分析的に、自分が属する体系を認識する傾向があるか」、というのは、研究はし易いのではないかと思います。各種武術・武道には、それぞれ、統括する組織がありますので(合気道なら合気会)、そこにアンケートを行う、或いは、教科書的テキストに、どの様な記述があるかを調べる、等すれば、団体の総意としての傾向(体系の根幹に関わる事なので、そう言って良いでしょう)は、見出されるでしょうね。
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