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2006年11月14日 (火)

浮遊

新たに、『「水からの伝言」を信じないでください』に批判的な内容の記事を見つけたので、リンクを貼っておきます。

レビログ::水からの伝言を信じないでくださいに含まれる科学的に見えて非科学的な部分。

田崎さんは、

音波による振動により水が変化しない(レビログより引用)

とは、一言も書いておられないと思うのですが。私が読んだ限りでは、見つけられませんでした。「言葉」に影響されないと書く方はいらっしゃいますが、「音」に影響されない、と言った人は、いましたっけ? 逆に聞きたいくらいです。kikulogとか調べたのですが、それを断言した人は、見当たりませんでした。それから、上記引用文のすぐ上では、

やさしい言葉をかけると、結晶の形が、汚い言葉をかけたときと比べて、変化するのは非科学的だとする、論調が、非科学的ではないでしょうか?

と書いておられますが、これは違います。非科学的とするのは、全く差し支えありません。水伝は、「良い」言葉をかけると「美しい」結晶が出来る、という主張なので、自然科学を持ち出すまでもなく、否定出来ます。でも、直後に、

内容により水が変化するというのは、アレとしても

とも書かれていて、一体何を仰りたいのか、よく解りません。その次の文が、「音波による振動により水が変化しないというのはちょっと、どうかと。」となっていて、いきなりオリジナルな命題が出されていますし。推測出来るのは、

”やさしい言葉をかけると、結晶の形が、汚い言葉をかけたときと比べて、変化するのは非科学的だとする”=”音波による振動により水が変化しない”(引用符内は、レビログより引用)

と変換してしまっている、といった所でしょうか。もしそうだとすると、これは曲解ですね。水伝の主張は、「音波による振動により水が変化する」というものではありません。たとえ、批判者が、「変化する」のは非科学的だ、と言ったとしても、そこには、「綺麗/汚い」結晶を作る、という意味が含まれています。解りにくいので追記:この文は、仮に、水伝を批判する人が、”「変化する」のは非科学的だ”と言ったり書いたりしたとしても、その「変化」という語には、「綺麗/汚い」という意味を含ませてある、という事です。

しかし、これまでの科学のさまざまな知識をもとにして考えれば、水が言葉の影響を受けて結晶の形を変えるということは、あり得ません(「水からの伝言」を信じないでください) 引用者註:強調・リンクははずしました。

こういう文章をよく見かけますが・・・この言葉を、超音波・音波・振動に置き換えるとどうでしょうか?

水伝の批判においては、そもそも「言葉」や「音楽」が問題にされている訳で、いきなり「置き換えると」と言われて、前提を替えられても、という感じです。

水に、音波による微細な振動を当て続けても、内容が変わらないと否定するのもやはり、トンデモ科学でしょう。

ですから、田崎さんは、そんな事は書かれていないと思う(と言うか、確認出来ない)のですが。拘っている様ですが、とても重要な点ですので。この部分だ、というのがあれば、教えて頂きたいです。

因みに、「水からの伝言」にかかわる実験から、可聴音は影響を与えないだろう、というのは、言ってもよいのかな、とは思います。「音波が結晶の出来かたに影響を及ぼすか」という命題について、物理学的にどの程度の事が言えるのかは、私は知識不足で、よく解らないです。

追記:リンク先に追記がありましたが、(私が)お手上げ、という感じです。「トンデモ論文」とか、何の事なのか、解らないです。「一般常識と異なるからという態度で否定しかしない」というのは、一体、誰に対しての批判なのでしょう。

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科学論」カテゴリの記事

コメント

書いた本人ですが・・・

水からの伝言 の事を差してどうこう行っているのではないのに
水からの伝言にはこうとか
その否定論文にはこうとか
いわれても論点が違うのですけど?

科学的な反論方法について述べているだけです。

否定論文を書く場合には
その現象の理由を言葉としているが、その理由は言葉ではなくXXであった。
とする必要性がある。と言っているだけです。

今回の場合は、振動や、光などさまざまな外的要素が変動しているのでそれが原因ではないか?と指摘しているのであり、そういう
何が要因なのか?と言うことを述べずに

私が思う科学とは違うから、科学的ではないとするのは非科学的であり、単なるディベートである。という主張です。

投稿: 心は萌え | 2006年11月15日 (水) 15:53

自然科学を持ち出すまでもなく、否定出来ます

とありますが、どのように否定するのでしょうか?

非科学的になら否定できると思いますけど

科学的に否定するならば実証実験をするか、反証となる現象を持ってこないのであれば

それは科学的な反論とはいえず、
そこに含まれているのは科学的ではない何かの議論ということで、その議論に科学的という単語を持ち出すのをやめて欲しいという事です。

投稿: 心は萌え | 2006年11月15日 (水) 15:55

心は萌えさん、今日は。

 >自然科学を持ち出すまでもなく、否定
 >出来ます

 >とありますが、どのように否定するの
 >でしょうか?
水伝は、「良い」言葉を掛けると、「美しい」結晶が出来ると主張しています。つまり、価値判断を持ち込んでいる、という事です。これは、そもそも自然科学の対象ではありません。ご存知だとは思いますが、水伝は、「阪神優勝」という文字を見せても、「美しい」結晶が出来る、と言っています。良い言葉、美しい結晶、がどの様なものであるかも定義されていずに、です。因みに、言語学的には、語形と語義の結び付き、言葉による外界の切り分けは、恣意的(ただそうなっている)であり、言語の体系や文脈を考慮せずに、「良い言葉」などと言う事は出来ません。

それから、初めのコメントに、
 >私が思う科学とは違うから、科学的で
 >はないとするのは非科学的であり、単
 >なるディベートである。
とありますが、「私が思う科学」とは、どういう意味でしょう。「私」とは、田崎さんを指しているとは思いますが。

田崎さんが書かれた、『「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?』や、『科学に「ぜったい」ということはないはずなのに、「水からの伝言」が本当でないと言い切れるの?』は、お読みになりましたでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2006年11月15日 (水) 16:54

 >否定論文を書く場合には
 >その現象の理由を言葉としているが、
 >その理由は言葉ではなくXXであった。
 >とする必要性がある。と言っているだ
 >けです。
これはもしかすると、反証する側が、挙証責任を負う、という事でしょうか(違ったらすみません)。反証は、水伝の、「良い言葉を聞かせたり見せたりすれば、美しい結晶が出来る」という命題を否定すれば充分です。
そして、この命題には、「良い」、「美しい」という価値判断が含まれています。当然、定義もされていませんし、定量的な概念でもありません。

ですから、そもそも反証に対して開かれていません。まず、水伝側が、反証可能なかたちで論文なりを提出していないのですから、それ以前の問題なのです。

なので、田崎さんは工夫して、「もし水伝の主張が本当であったらどうなるか」と仮定して、そうした場合に、現在の自然科学的知見と全く矛盾するか、という事を示した訳です。これは、
 >私が思う科学とは違うから
などという、個人的な考えでは無く、これまで数え切れない程の人間が、長い年月を掛けて蓄積してきた、知の体系としての科学と矛盾する、という意味です。

投稿: TAKESAN | 2006年11月15日 (水) 17:40

今リンク先を読んだら、田崎さんと田部さんが、コメントを投稿されていました。

これで納得なさる…かな。

投稿: TAKESAN | 2006年11月17日 (金) 01:01

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