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2006年11月18日 (土)

理屈を言う人は上達しないであろうバイアス、の形成

「理屈ばかり言って、動けなければ何もならない」、という言い方は、結構見られます。それは確かにそうです。そもそも目標が、高度な身体運動の体現なのですから。しかし、それは、「理屈を言ってはいけない」という意味では、全くありません。ここの所を勘違いしている人が、武術関係者には、多くいる様な気がします。そういった考えは、時に、武術を論理的・科学的に認識する為の勉強が足りない事に対する正当化として、働く場合があります。

別に、頭を使ったからといって、技が下手になる訳では無いのですから(厳密に言えば、認識が、身体運動に悪影響を及ぼす場合はあるでしょうけれど、常識的な言葉の使い方として、お読み下さい)、それを毛嫌いする必要は、全然無いのですが。

心理学的には、劣等感の様なものが作用しているのかも知れませんし、もっとマクロには、潜在的擁護システム(高岡英夫)の発現、と見る事も出来るでしょう。端的に言えば、上位者が下位者に追いつかれ・越されたくない、という力が働いている可能性がある、という事です。そういう気持ちは、誰しも持っているものだとは思いますが、それを相対化出来るかどうかは、とても重要です。

理屈を殆ど考えずに、高いレベルに達する事が出来た人を、「天才」と呼びます。そんな人は、(「天才」の定義――同じ様なレベルの人間が多数いれば、「天才」と評価されない――からして)殆どいない訳です。ですから、少しでも多くの人が、上に行ける様にする為には、現象のメカニズムを明らかにし、誰もが確実に上達出来る様な体系を構築する必要があります。

他者より上でありたい、という認識を持っている人にとっては、受け容れがたいかも知れませんね。私は、「自己の可能性を最大限発揮したい」という考えなので、他人と比較してどう、というのは、余り気にしません(厳密には、そうなりました)。宇城憲治師範も、同じ様な事を言われていた、という記憶がありますが、その方が、健全なのではないかと思っています。

一応補足。「理屈ばかり言って」、というのを、身体を動かさない事に対する批判、という意味で使うのは、別に構わないとは思うのですが、極まり文句の様に、余りそればかり言っていると、考える事自体がいけないのだ、と認識してしまう場合があります。その事についてのエントリーです。

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「武術・身体運動」カテゴリの記事

コメント

理屈を知らない人間は成長しないといわれる職種として,レーサーがあります。
基礎的な力学が解ってないとセッティングが出せないので,理屈を知らない人は速くなりません。
もっとも,自身の命にも関わるので,理屈を理解せざるを得ないわけですが。

「理屈じゃない」なんてことが言えるのは,厳しい状況に置かれてないか,あるいは何らかの理由で技を隠したいかのどちらかでしょうね。

投稿: A-WING | 2006年11月18日 (土) 20:10

A-WINGさん、今晩は。

レース等は、客観的に実力を試す機会があるので、そういう厳しさが認識され易いのかも知れません。武術・武道は、柔道や剣道等を除くと、そういう機会は殆ど無いので(あったとしても、競技では無く演舞会)、正当化を許してしまう余地がありますね。そういう意味では、甘いというそしりを受けても仕方が無いと思います。武術に携わる人達は、もっと、スポーツ等に目を向けるべきだと考えています。

 >あるいは何らかの理由で技を隠したいか
武術が実際に使われていた時代は、技の秘匿が、流派の存続や、武術家の命に直接関わった、という事が考えられますが、現代の人達は、そういう考えを固持して、結局、閉じてしまっているのでしょうね。伝統文化に対しての、悪い意味での拘りなのだと思います。

投稿: TAKESAN | 2006年11月18日 (土) 20:46

柔道の嘉納治五郎、剣道の千葉周作は、理屈を考えて体系づけて合理的習得を容易にした大御所ですね。

投稿: ft | 2006年11月18日 (土) 22:29

ftさん、今日は。

 >柔道の嘉納治五郎、剣道の千葉周作は
そうですね。そして、古流から批判された人達でもありますね。確かに、古流のシステムを変容させた、という面があって、そこをどう評価するか、という問題はありますが、どちらにせよ、偉大な先達である事には、変わりありませんね。

投稿: TAKESAN | 2006年11月19日 (日) 11:31

どうも私は「1書いて10読ませる」ような書き方をしてしまう悪癖があって,また今回もやってしまいました。

「何らかの理由」のところには,相手の自発性を促すためにあえて理屈を隠す,というのも含みます。
というのも,私の経験上,技術を教えるのにズバリと答えを提示してしまうと,あとの成長が鈍ることが多いように思うからです。
また,センスがあって要領のよい人ほど,その傾向が強いような気がします。なまじセンスがあると,自分がなぜそうしたかを説明できないんですよね。だから「名選手,名監督ならず」なのかなと。
「3歩進んで2歩下がる」ではないですが,試行錯誤の過程には,目の前の問いへはもちろんのこと,その先の問いへのヒントも含まれると思います。

投稿: A-WING | 2006年11月19日 (日) 16:05

A-WINGさん、今晩は。

 >相手の自発性を促すためにあえて理屈
 >を隠す,というのも含みます。
ああ、成る程。私の読み違いでしたね。済みません。

仰る様に、敢えて教えない、という方法によって、相手に内省を促す、という効果を持つ場合がありますね。いわゆる「教え過ぎ」は良くない、という事ですね。
私が以前書いた(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/cat694888/index.html)、「言葉で説明出来るのにしない(相手が自発的に考えるよう、促す)のと、説明「出来ない」のは、全く別の事です。」の、前段の部分ですね。

 >なまじセンスがあると,自分がなぜそ
 >うしたかを説明できないんですよね。
直感力に優れている人は、そうなる事がありますね。長嶋茂雄氏等は、典型的ですね。自分のパフォーマンスを論理的に認識出来ないから、擬態語等を駆使した説明になる、という。又、センスのある人に、無理に論理的に(つまり理屈で)教え込もうとすると、却って、パフォーマンスの向上を阻害する場合もあるでしょうね。

武術において、敢えて教えない、という現象は、(1)技を秘匿する事によって上位者の権威を護る、(2)外部に技術が漏れるのを防ぐ、(3)教えない事によって自発を促す、等の機能があると考えられます。そして、武術界では、説明「出来ない」事を、これらの目的を以って正当化してしまう、という面があります。その様な態度が、反科学の認識等によって強められる場合がありますので、関係者は、よく省みるべきだと思っています。

 >「1書いて10読ませる」
私は、「10読ませる為に5(←適当)書こう」となってしまって、文章が冗長になってしまいます。長文済みません…。

投稿: TAKESAN | 2006年11月19日 (日) 17:51

あ、上に書いてある「論理的」というのは、「自然科学的」とした方が良いかも知れません。
武術では(派にもよりますが)、姿勢の正しさを強調したり、身体の「気の流れ」という概念を使って内感を促したりする、という方法が、システムに組み込まれています。ですから、その意味では、とても論理的で、壮大な体系を為しています。中国武術もそうですね。ただ、それは、自然科学に対しては、閉じてしまっている場合があります(論理的ではあるが科学的では無い、という)。それが、科学的知識を忌避する態度につながる事もあります。
このブログで批判の対象としているのは、直感重視且つ反科学(科学拒否)の態度を取る人ですね。個人的には、指導者クラスは、須らく科学的認識を鍛えるべき、と思っていますが。

投稿: TAKESAN | 2006年11月19日 (日) 18:17

私は「気の流れ」のようなものは,「知恵」の一つだと思います。工学的に言えば,「モジュール」とか「ユニット」,あるいは「ライブラリ」,「オブジェクト」とか。

歴史的経験的にほぼ完成している概念に対して働きかけることによって,ある特定の結果を得えられるような装置。ユーザーはモジュールの使い方さえ知っていれば,その中身を知らなくても,望む結果が得られる。
しかし反面,形骸化して基礎的な知識が失われ,結果としてシステム全体が衰退してしまう危険があります。
そのことに気付いて対処できるかどうかが,システムの寿命に関係すると思います。

投稿: A-WING | 2006年11月19日 (日) 19:00

武術は、人間―人間―それを取り巻く環境、という関係で成り立っているので、そもそも物理学・生理学・心理学・社会科学等々の現象が渾然一体となっています。ですから、分析的(要素還元主義的)にはどうしても捉えきれない現象があり、その様なホリスティックな現象を、「気」や「呼吸(生理学的概念では無く)」と名付け、成果を挙げてきました。これは、素晴らしい財産であると思います。東洋の経絡理論等も、そうですね。

 >しかし反面,形骸化して基礎的な知識
 >が失われ,結果としてシステム全体が
 >衰退してしまう危険があります。
まさに、ここが重要ですね。偉大な先人が生み出し、培ってきた知識を詳しく吟味しようとせずに、結果、形骸化してしまう。近年、武術界では、内外から、この様な批判がなされました。最近では、甲野善紀氏が、一般にも知られる様になりましたね。

「気」という概念は、仰る様に、モジュール的なので、とても有効に機能する事がある反面、内容がブラックボックス的ですから、用いられ方が曖昧になる危険性も孕んでいますね。意味も多義的になってしまったり。ですから、流派間で、その「気」に対する理解は間違っている、という批判合戦が起こったり、といった事もしばしばですね。

投稿: TAKESAN | 2006年11月19日 (日) 21:17

poohさんの所(http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-05-29
)で紹介されたブログを読んで思った事。

ちょっと気になったのが、リンク先で紹介されている、「名古屋大学の教授」による、
 >気やツボは解剖学的に確認されていな
 >いものをよりどころにする理論は疑似
 >科学といわざるをえない。でも、医療
 >としては非常に有効だと思います。
という部分ですね。ソース未確認なので、余り不用意な事は言えませんが、ちょっとこの論理は、あれ? と思いました(「解剖学的に確認されていないものをよりどころにする理論は疑似科学といわざるをえない」という所に)。もしかしたら、ブログ主さんによって、要約されているのかも知れませんが。

(※上記が、そのまま引用されていると仮定します。文脈を参照していないので、解釈が誤る可能性があります)解剖学的に確認されていないから疑似科学、と言うのは、ちょっと乱暴かな、と。これをそのまま読むと、実体と対応付けられない論理体系は、悉く疑似科学、という事にも、なってしまいかねません。そうすると、心理学のある部分は、疑似科学になりますね。尤も、そう主張する人は、いるかも知れませんが。
気や経絡の体系は、未科学、と言うべきでしょうか。
これらが疑似科学と言える為には、既存の解剖学的・生理学的概念との対応が明らかになったと嘯いたり、信頼性の高い研究が無いのに、あると言ってみたり、という事が、確認されなければならないのかな、と思います。

投稿: TAKESAN | 2007年5月29日 (火) 23:56

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