« 表現 | トップページ | 遅れ »

2006年9月 6日 (水)

メモ:「ゲームは暴力性を高めるか」という問題について

例によって、なぐり書きです(この表現、正しいのかな)。

  • 多様性を無視している。「ゲーム」と一括りにするのは妥当ではない。
  • 「暴力性」という概念を明らかにする必要がある。どの様な行為を「暴力」と認識するか。一般の人が「暴力性」と聞いた際、どの様な意味に取るか。学術的定義と、社会一般的に使われる意味にズレは無いか。良く考えなければならない。(「暴力」については、高岡の、武道の科学化と格闘技の本質が参考になる)
  • ゲーム内での表現と、現実を、どの様に結び付けるか。ゲームの中で起こっている事が、つまる所、単なる記号の操作である事を、理解しているか。ゲーム中で、暴力行為が正当化される様な表現があったとして、それを肯定的に受け取るかどうか。
  • 養育者が暴力行為に対してどの様な認識を持っているか。暴力によって問題を解決する事を、どの程度許容するか。それは、子どもの暴力性に影響を与えるか。それは、許容か嫌悪か。例えば、養育者に暴力を振るわれたと認識した子どもが、他人に暴力行為を加える事を極端に嫌悪する場合もある。自分がやられて嫌だったから、他人には絶対やらない、という具合に。
  • ゲーム中の暴力行為を正当化する表現を受け入れる子どもに対して、養育者がどの様な態度を取るか。放っておくか。その様な認識は良くないものだ、という事を教えようと試みるか。
  • 例えば、幼児が格闘ゲームをプレイして、動作(蹴ったり殴ったり)を模倣する事がある。これは間違いなく、闘作(格闘的動作。高岡英夫による)の学習であるが、それを以って、「暴力性が高まった」と言えるかどうか。
  • 暴力表現を含み、それを肯定的に評価するゲームに触れる事は、その他の暴力を否定するものに触れない事を、意味しない。
  • 暴力表現とは、グラフィカルなものだけを指すのか。例えば、『ドラゴンクエスト』シリーズ(と言うより、RPGの多く)は、モンスターを殺戮し、金品を奪いとり、社会的に賞賛を受ける、というシステムである(書き方によって、この様なネガティブな印象を与える事が出来る)。だが、グラフィック的には、血も出ないし、モンスターもコミカルなものである(これは、堀井雄二氏の、意図的な表現(ソース失念)。敢えて記号らしさを強調しているのだと考えられる。という事は、堀井氏は、リアルな表現が、余り良くない影響を与える事がある、という自覚をお持ちなのだろう)。これを「暴力の容認」と考えるかどうか(そう捉える論者はいるだろう)。もし、そう捉えるとすれば、『アンパンマン』を、高度に暴力的である、と言う事も可能である。バイキンマンをぶっ飛ばして、街の人達に感謝されるのであるから。※個人的な話を。私は、子どもの頃、ゲームのキャラ対して、「この人達、他人の家に入ってタンスを漁ったりして、駄目だろう。」と、何気無く考えたりもしましたが、結局は、「まあ、ゲームだからね。」と、割り切っていました。ですから、反社会な行為を表現するのは怪しからん、という意見に対しては、「何言ってんの?」という感じです。余り、子どもを馬鹿にしないでくれ、と思います。
  • 「ゲームとは何か」、「暴力とは何か」、「暴力性とは何か」、「暴力性が高まるとはどういう事か」、等を、良く考える。

激しく解りにくいですね。

暴力というのは、殴ったり蹴ったりといった、物理的に攻撃する行為だ、と考えるのが一般的だろうと思います。で、ゲームにおける暴力表現とは、それ(暴力行為)をグラフィカルに描いたものの事を指しているのでしょう。しかし、グラフィックで暴力行為を描いているといっても、それにはかなりバラツキがある訳です。例えば、戦争を写実的に描いたものから、スーパーマリオの様な(良く考えてみて下さい、亀を踏んだり、火の玉を投げたり、かなり「暴力的」です)、コミカルなキャラまで、色々あります。そのバラツキの中に適当に線引きをして、ここからは暴力表現、ここからはそうでない、と判断するのです。GTAの表現が暴力的でない、と考える人はいないでしょうし、マリオがノコノコを踏みつけるのを暴力的だと看做す人は、殆どいないでしょう。ドラクエで、勇者がモンスターを薙ぎ倒していくのも、充分「暴力」ですが、それに「暴力的」だ、と目くじらを立てる人も、少ないのではないかと思います。だから、ゲームにおける暴力表現とは何か、という事を、ちゃんと考えなければならないのです。ハードの処理性能が向上し、グラフィックが写実的になればなる程、それを暴力的だと看做すか、そしてそれが、よりプレイヤーの「暴力性」を高めるものなのか。それともそうでは無いのか(因みに、グラフィカルな表現が殆ど無くとも、テキストによって、暴力行為を表現する事は出来ます。小説がそうですね。ゲームでは、アドベンチャーですね)。

社会心理学の研究では、ゲームによって暴力性が高まる場合がある、という結果が見出されたものもある様ですが、当たり前ですね。暴力行為に報奨が与えられたりする場面を見て、それを肯定的に学習する、というのは、有り得る事です(問題は、それを一般化してしまう事ですね。「ゲームは暴力性を高める」という様に)。そしてそれは、他の文化でも起こりうる事でしょう。漫画でもテレビでも小説でも。熱血教師もののドラマを観て感動し、「時には殴って解らせてやらなくてはいかんのだ!」と考えたとすれば、それは、「影響を受けた」と言えます。悪影響かどうかはともかくとして。そして、「暴力的になった」とも言えるでしょう。でも、「それは”暴力的”とは言えないのでは」と考える人もいるでしょうね。だから、「暴力」とは何か、という事を、良く考えなければならないのです。暴力は、多分、殆どネガティブな意味でとられると思います。ですから、研究の為に、「暴力」の概念を定義したとしても、一般の使い方とはズレがでます。

何か、ごちゃごちゃしてますね…。まあ、私が言いたいのは、そもそも、問題が滅茶苦茶複雑なのだから、単純な対応関係を考えずに、複雑なまま理解しようと努力すべきではないか、という事ですね。

|

« 表現 | トップページ | 遅れ »

「ゲーム論」カテゴリの記事

コメント

暴力をどう定義づけるかというのは難しい問題ですね。
仮に「他者に自分の意向を強制して縦にせしめること」とすれば、泣き喚いて我を通そうとする子供らや涙を武器にする女性なども十分に暴力的ということになるかもしれません。これもやはり教育であると同時に多分に躾の問題のようにも思います。その意味で安易な思考停止に飛びつかないようにしなければならないと強く思います。

投稿: 壱眞 | 2006年9月 8日 (金) 06:54

壱眞さん、今日は。9/5のエントリーへもコメントを頂き、有難うございます。

「暴力」というのは、多義的に使われていますし、暴力/非暴力の線引きも、恣意的なものですね。その事を認識せずに、厳密に意味が規定出来る概念であると考える、又、自分が認識する暴力の意味が、妥当であると前提してしまうのでしょうね。そうすると、他の人との使い方と、ずれてしまう事があるのだと思います。
実体的には全く同じ行為でも、社会的状況・文脈によって、それが暴力と認識されるかどうかは変わりますしね。
これらを踏まえた上で、研究を行うべきだと考えています。

投稿: TAKESAN | 2006年9月 8日 (金) 11:50

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/3329543

この記事へのトラックバック一覧です: メモ:「ゲームは暴力性を高めるか」という問題について:

« 表現 | トップページ | 遅れ »