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2005年12月に作成された記事

2005年12月31日 (土)

屁理屈

孔子は、「己の欲せざる所人に施すなかれ。」と言ったそうですが、

自分が「他人にされたくない事」、を、

他人も「して欲しくない」、と考えている、

とは限りませんよね。

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評価

自分が、「良い」とか「こうあるべきだ」と考えている「生き方」があるとします。

その「生き方」を志向する人に、肯定的な評価を与え、そうでない人には、否定的な評価を下します。自分が「こうあるべきだ」と考えている事が、「人間は皆、こう生きるべきだ。」と一般化されるからです。

こうして差別が生まれます。

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2005年12月30日 (金)

森氏の研究に意味はあったか

「ゲーム脳」論に批判的な学者は多いですが、その中にも、「森氏の研究には意味があった。」という学者がいます。論調は、研究内容には不備があるが、研究結果を発表した事には、一般の人に問題提起を行った、という意味で、社会的な意義があったのだ、という具合です。

しかし私は、この様な意見には、到底首肯出来ません。

何故ならば、科学的妥当性を欠いた研究を行い、その結果をもって特定の文化を非難する、という事自体が、科学者としての基本的な行動規範を逸脱している、と考えるからです。

「マスメディアが騒ぎ過ぎた。」という意見を言う学者もいます。

これは確かにその通りだと考えますが、だからといって、森氏に責任が無い、という事は言えません。現に森氏は、再三、マスメディアのインタビューに答える等して、ゲーム脳論を開陳しているのです(例えば、ZAKZAK:運転士、異常行動“ゲーム脳”の特徴(リンク切れ)、携帯メールでも脳が壊れる? 拡大する“ゲーム脳”汚染ゲーム脳 神経回路の形成に影響)。

件の学者達は、この様な事情を知っていながら、「意味があった」というのでしょうか。

もしそうであるなら、科学社会学的な認識が足りない、と言えるでしょう。

※補足

私は、「意味があった」と言った事を批判している、というよりも、森氏の研究を強く非難しなかった事、を批判しているのです。例えば、「ゲームをしている人間の脳活動を、神経科学的に研究する事は意味があるけれども、森氏の研究は妥当性を欠いており、その結果を安易に新書に掲載して出版するというのは、問題である。」の様に言うべきであったと考えています。

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2005年12月29日 (木)

操作

ゲームにおける重要な概念として、「操作」が挙げられます。

操作とは、「(機械などを)あやつって働かせること。また、自分に都合のよいようにうまく運用・処理すること。」(『広辞苑』第五版)ですが、ゲームがテレビ等のメディアと異なるのは、画面上のキャラクターや、流れてくる音声を、直接的に操作出来る、という事でしょう(その自由度は、ゲームによって異なりますが)。テレビや映画等は、基本的には、画面上に現れる映像や、聞こえてくる音声を受け取るだけです。

操作出来る対象は、パズルゲームのピースやテーブルゲームの駒、人格を与えられたキャラクター等です。この内、後者がより重要であると考えます。

ロールプレイングやシミュレーション、アクションやアドベンチャー等では、ユニークな人格をもった主人公を操り、ストーリーを進めていきます。そこでは、プレイヤーが、物語に極めて積極的に関る、という、ゲームに独特の展開が見られます。それは恰も、プレイヤーが、観客であると同時に脚本家である様なものです。自分の判断が、主人公の行動をコントロールし、物語の展開を左右する。しかし、プレイヤーは物語の全容を知っている訳ではないので、次に何が起こるか確実には解らない、というシステムです。

ゲームのこの様な特徴に注目し、研究する事は、とても重要ではないでしょうか。

私は、ゲームが、「良くも悪くも認知に大きな影響を与える可能性がある」と考えています。ゲームには、クリエイターの思想が込められており、それはプレイヤーの悩みを癒す事もあれば、それを増幅し、よりネガティヴにさせるかも知れません。ゲームの「操作性」を考えれば、他の文化より大きな影響を与える事も、可能性としてはあるでしょう。ゲームの影響云々と言う人は、(ゲームに)否定的な論者も肯定的な論者も、当該文化を正しく認識しようという努力を怠っているのではないでしょうか。

例えば、「ゲーム脳」を否定する学者の中には、どうせゲームなど、人間に大した影響など与えないのだ、という様な事を主張する人がいますが、これは、ゲームという文化を過小評価していると考えられます。ゲームは、映画や小説や音楽と同じく(それらを包含し得る)、思想を表現出来る文化です。そしてこの文化には、数え切れない程の人が関わり、創造力を発揮しているのです。その様な文化が、人間に大した影響など与えない、と主張するのは、「ゲーム脳」論等の単純な還元主義的理論を主張する事とは違う意味で、ゲームというものを正確に捉えていない、と言えるでしょう。

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2005年12月28日 (水)

報道

テレビゲームやアニメに傾倒していた人間が犯罪を行った場合、マスメディアは、ゲームやアニメが好きであったことをクローズアップして、それが原因であるかの様に報道します。

しかし、犯罪者が、例えば野球やサッカー等の、メジャースポーツの現役選手であった場合、「何故スポーツを頑張っていたのに犯罪などしたのだ」、と報道されます(主観的にはそう感じます。「しごき」等が言及される場合もありますが)。

アニメ好きの犯罪者が、「頑張ってアニメを見ていたのに。」と言われることはないでしょう。

それは何故でしょうか。

「スポーツは、人間の健全な育成を促すものである。」というステレオタイプがあるのかも知れません。

「ゲームやアニメは、人間の欲望を喚起し、増幅させるものである。」というステレオタイプがあるのかも知れません。

スポーツが人間の暴力性を増幅させる、という意見は、一般には殆ど無いと思われます。マスメディアがその様な報道をするのを、私は殆ど見た事がありません。

何故でしょうね。

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2005年12月27日 (火)

ちょこっと記号論

我々は、個人がそれぞれ持っている言語の体系で、コトバを解釈します。

ある表現が、発信者の意図しない意味に取られて、拗れてしまうことがあります。

差別語に関する議論等で、その様な誤解が見られます。
「何々と言ったな、それは差別だ。」 、「いや、そんな意図はなかったのだ。」 の様に。

コミュニケーションをとる際に誤解が起きる一因として、「お互いの言語体系が一致しているという思い込み」 が挙げられます。

発信者が何気なく言ったコトバでも、受信者が重く受け止めてしまう、ということがあります。そして受信者は思うのです。「何故この人はこんな酷い事を言うのだろう」と。

言わば、受信者は、発信者の意図を離れて「勝手に」解釈するのです。

私たちは、一人一人、生きてきた環境も、時間も異なります。人間の数だけ辞書が有る様なものです。
その、それぞれの辞書の「ずれ」を認識し、お互いの理解を深めようと努力することが必要なのだと思います。
相手の意図を汲み取ること、これが肝心です。

※これは、とある掲示板に投稿した文に修正を加えたものです。

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2005年12月26日 (月)

運動

「ゲーム」でも「漫画」でも「アニメ」でも何でも構いませんが、それらの「悪影響」を論じる際に、「運動」する事が少なくなったからだ、と言う論者がいます。例えば、「私達の小さな頃、若い頃には、良く外で遊びまわったものだ。今の人にはそういった経験が少ない。だから、豊かな人間性が育まれず、凶悪な犯罪が起きたり、思いやりの少ない人が増えているのだ。」という様に。

私は、スポーツ・武道・各種健康法等の身体運動文化に格別な関心を持ち、それらの効用についても興味を持つ人間です。従って、「運動」の影響(勿論、悪影響についても)については、詳しく科学的に考察する必要がある、と考えています。

人間の「身体」というものを自然科学的に(即ち、物理・化学・工学等。当然、「医学」はその様な立場です。)対象化するならば、色々な身体運動文化が、どの様に力学的に作用し、又、生化学的にどの様な作用を促すか、それは健康を増進し、病気を予防するものなのか、あるいは、身体に過剰の負担を掛け、健康を損なうものなのか、等を考える事は、とても重要な視座であると言えます。勿論、それらが人文・社会科学的にどの様なメカニズムを持っているか、という事もとても重要です。

然るに、ゲーム等の文化を批判する論者は、運動の効用云々を語る際、極めて素朴な意見を開陳するに留まっています。即ち、「昔はこれこれの運動をしたから良かった」、「我々の小さい頃は快適だった」、等です。

そこに見出されるのは、

  1. 「昔は良い社会だった」
  2. 「昔は沢山身体を動かした」
  3. 「昔は沢山身体を動かしたから、良い社会だったのだ」

という、単純で根拠に乏しい論法です。

又、彼・彼女達は、「運動の悪影響」については、あまり積極的に論じようとはしません。

身体運動は、力学的な現象ですから、当然、「無理」のある運動もあるはずです。又、認識を、スポーツや武道等の、「文化」にまで広げれば、そこには当然、複雑な人文・社会科学的メカニズムが働いている筈です。そのメカニズムが、「認知」に悪い(これも一つの「価値」です)影響を与える可能性は、充分に考えられます。

批判者は、この様な論理を踏まえずに、安易に「運動不足」と「人間性の喪失」を結び付け、更にそれを、特定の文化の繁栄にまで短絡させ、その文化を積極的に非難します。

運動の効用を主張するのは構わないのです。どの様な運動が、心身にどの様な影響を与えるかどうかを、学問的に研究すれば良いのです。

しかし、単なる直感を、他の直感と安易に結び付けるべきではないのです。

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2005年12月25日 (日)

教える

ゲームを好む者を軽蔑する養育者が、子どもを教育する際、ゲームをする人間には碌な者がいない、等と教え込んだらどうなるでしょうか。

 その様な教育を受けて育った人は、ゲーム好きと知り合った場合に、ゲーム好きというだけで、相手を軽蔑するかも知れません。

めでたく差別主義者の出来上がり、という訳です。

勿論、「ゲーム」の部分には、色々な物事が当てはまります。「アニメ」でも「漫画」でも、「野球」でも「サッカー」でも。

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2005年12月24日 (土)

相対化

「ゲーム脳」に類似する主張をする人に共通するのは、「文化を相対化する」視点が欠落している、という事でしょう。

文化というものが、恣意性に支配された価値の体系である、という事に対する認識が足りないのです。

例えば、「電車内で化粧をする事」を、「だらしなさ」を象徴する記号と看做し、それを非難します。それだけならまだ問題は少ないと言えます。好き嫌いは誰にもあるものですし、ある行動に不快感を覚える事も、それ自体は特に責められる事でも無いでしょう。

しかし、この様な認識が進んでしまうと、この「だらしなさ」という意味が、次第に「人間として未成熟な」とか、「文化的に劣っている」といった、より積極的に差別的なものに変わってしまうのです。そして遂には、「脳の機能が低下している」という、自然科学的な概念と無理矢理に結び付けてしまうのです(そもそも、「脳の機能低下」に、差別的なニュアンスが込められています)。

後はもう独擅場です。

彼・彼女には、大義名分が出来たのです。即ち、「自分達は、文化的に劣等である人間の脳波を発見した。これは由々しき事態であって、我々専門家は、この様な恐ろしい事態を改善する為の、社会的責任を果たさなければならないのだ。」という、「正義感」に目覚めるのです。そこには、自分達のものの見方それ自体が、恣意的な意味の網の目によって形成された、相対的なものである、という自覚は、微塵も見出されません。

自己の主観的認識を正当化する為に、ブレイン・イメージングの結果という、自然科学的概念を持ち出して解釈し、それがさも科学的真理であるかの様に主張するのです。そして、同じ様な結果が出れば、それに「異常」のレッテルを貼り、思い煩うのです。「これはどうしたものか」と。そこにあるのは、専門家としての自惚れと、自分が文化的に高等であるという思い込み、そして、「無知な大衆」に対する「啓蒙精神」です。

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2005年12月23日 (金)

常識について

自分の知っている事が常識である、と思い込んでいる人が居ます。 

それは何故か。

それ以上考える必要がないからです。

その方が「楽」だからなのです。

その人は、自分の知らない事に出会うと、そんなのは知らなくても良いのだ、と言うでしょう。

その人は、自分の知っている「常識」を知らない人に、そんな事も知らないのか、と言うでしょう。

ある「常識」を自分勝手に設定し、それが普遍的なものであると思い込み、反省する事を忘れる……

その様な人間にはなりたくないものです。

※これは、とある掲示板に投稿した文に修正を加えたものです。

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2005年12月22日 (木)

ゲームとは何か(2)

前回は、私達が日常的に「ゲーム」と呼んでいるものの定義を試みました。しかし、これだけでは充分ではありません。今回は、「ゲーム」という文化が、具体的にどの様な在り方をしているか、について考察します(以下、特に断らない限り、「ゲーム」は、「コンピュータ・ゲーム」を指します)。

ゲームには、様々なジャンルがあります。以下列挙してみましょう(コンピュータゲーム - Wikipediaより引用)。

・アクションゲーム (シューティングゲームに属さない、反射神経を求められるゲーム)

  ・対戦型格闘ゲーム (1対1で格闘するゲーム・人間のプレーヤー同士でも対戦できる)

・シューティングゲーム (ボタンを押すことで弾丸を発射、これで敵を撃破しながら進むゲーム)

  ・ファーストパーソン・シューティングゲーム (主観視点で操作する3Dシューティング)

  ・ガンシューティングゲーム (銃型コントローラーを使うシューティングゲーム)

・ロールプレイングゲーム (役割を演じるゲーム)

  ・アクションロールプレイングゲーム (RPGにアクションゲームの要素が加えられた物)

  ・シミュレーションロールプレイングゲーム (ステラジー(原文ママ)要素などが加えられたRPG)

・シミュレーションゲーム (コンピュータ上で再現された仮想空間で様々な体験をできるもの)

  ・ウォー・シミュレーションゲーム (軍隊の指揮官になるなどして、戦争を行うシミュレーション)

    ・歴史シミュレーションゲーム (実史上の出来事などを題材にしたシミュレーション)

    ・リアルタイムストラテジー (時間経過と共に状況が変化して行く中で、複数の味方に指示を出していくゲーム)

  ・経営シミュレーションゲーム (経営者となって、企業などを運営して行くゲーム)

  ・育成シミュレーションゲーム (仮想的にキャラクターや自分自身を成長させ、仮想環境との関係を築くゲーム)

・アドベンチャーゲーム (様々な謎を解き明かし、先へ進むゲーム)

  ・サウンドノベル(ビジュアルノベル)

・パズルゲーム (パズルを解くゲーム)

  ・アクションパズル (パズルゲームにリアルタイム性を持たせた物)

    ・落ち物パズル (落下するという特性でリアルタイム性を持たせたパズル・テトリスを原型とする)

・テーブルゲーム (コンピュータ)

  ・コンピュータ将棋

  ・コンピュータ囲碁

  ・コンピュータチェス

・レースゲーム

・音楽ゲーム (所定の操作をして行くと、音楽となるゲーム・楽器などを模したコントローラーが多い)

実に多数の種類が挙げられます(勿論、必ずしも峻別出来るものではありませんが)。

ゲームは、テレビと同様に、専ら光と音を媒体とするので、芸能・スポーツ・経済・軍事・政治等の、様々な文化に関する情報を伝達する事が可能です。テレビと異なるのは、一つのコンテンツ内で、人間の信号の入力に応じた結果が出力される、ということでしょう※。

※テレビで、「チャンネルを変える」という操作がありますが、これは、コンテンツを選択する操作です。又、ビデオの早送りや巻き戻しの機能は、「(広義の)ゲーム」には当てはまらないでしょう。

私は前回

「ボウリング」や「パチンコ」、「麻雀」や「将棋」、「メール」や「チャット」は、「コンピュータ・ゲーム」とは言えない、となります。

と書きましが、例えば将棋では、ディスプレイ上に盤面を表示させれば、それは「(コンピュータ)ゲーム」と認識される事になります。他のゲームも同様です※2。

※2ボウリングやパチンコのゲームは、広義の「シミュレーション(模擬)ゲーム」と言えるでしょう。対して、将棋やオセロやチェス等は、元のゲームそのもの(の媒体を換えたもの)と言う事が出来るでしょう(駒や盤は、木でも紙でも金属でも、何でも構わない。音声のみで進める事も出来る)。

この様に、「ゲーム」とは、様々な文化の要素を含む、とても複雑な文化現象である、と言えるでしょう。これは、無限の「ゲーム」が創造され得る、という事でもあります。

何度も書きますが、ゲームの悪影響を主張する論者には、この視座が決定的に欠けているのです。そもそも多様で複雑であるものを、無理矢理一括りにして(あるいは、ごく小数の例をもって)、その影響云々を論ずるのは妥当ではありません。もし「ゲーム」が悪影響を及ぼすと言うのであれば、多様な在り方をしているゲームに共通する論理※3を明らかにし、それがどの様に悪影響※4を及ぼしているか、そのメカニズムを解明しなければならないのです。

※3私は、「ゲームに何が含まれないか」を考察する事が重要であると考えています。例えば、全身的な身体運動を伴わない事、等です。勿論これは一般論ではありません。現状では比較的少ない、と言える程度です。ただ、これを基に、ゲームをやり過ぎると運動不足になる、という程度の事は言えると思います(生活の時間配分の問題なので当然です)。ですが、飛躍して、これ以上の事は言うべきではありません。

又、ゲームの特徴としては、「対象を直接的に操作出来る」という事が挙げられると思います。例えば、ゲームの世界に積極的に参加(映画等は、受動的)して、「英雄」や「支配者」を演ずることが出来ます。勿論、「大量殺戮者」でも「聖者」でも、です。この積極性というのは、小説や映画とは異なった性質と言えるかも知れません。

※4そもそも「悪影響」とは何か、という問題もあります。「ゲーム脳”派”」の人達は、脳の前頭前野の機能低下を主張します。「認知」を対象に含めている研究者は、例えば、「暴力性を高める可能性(ゲーム脳派は、前頭前野の機能低下の結果による暴力性の高まり、あるいは抑制の低下を主張します。そこに「認知」の視点は見られません)」を言います。前者は論外として、後者については良く考える必要があります。何故ならば、「暴力とは何か」という事まで考察しなければならないからです。

これは勿論、特定のジャンルのゲームをした場合に、心理学的にどの様な効果を及ぼすか、といった研究を否定するものではありません※5。寧ろ、この様な研究は、積極的に行われるべきでしょう。ただ、この様な研究を行う際、結果について安易な解釈を施すべきではないでしょう。常に、別解釈の可能性や、他の環境の影響の検討、実験環境そのものが与えるバイアス等を考慮すべきです。

※5ゲームの与える影響、についての心理学的研究としては、お茶の水女子大学の坂元章氏の社会心理学的研究が、評価出来ます。ただ、「暴力とはそもそも何か」という視座や、実験環境の与えるバイアス、他の環境の与える効果との比較、といった観点が足りない様に思われます。2006年9月24日追記:この指摘は的外れですね。坂元氏の著作を全て検討した訳では無いので、こう判断を下すのは妥当ではありませんでした。「攻撃」や「暴力」等の構成概念については、心理学的に様々な定義が為されているので、それに従って研究を進めるのは、当然の事です。定義や心理測定尺度が妥当であるかとか、それらの語が世間でどの様に使われているかという社会言語学的問題は、取り敢えずは切り離して良いと思います。ただ、研究結果を世間に公表する際には、この問題が深く関わってきますから、良く考えねばならないでしょう。

これまで、「ゲーム脳」論の妥当性から、そもそも「ゲーム」とは何か、というまで、私なりに論じてきました。概念の曖昧さや、論旨の不明確な所等はあると思います。ですが、「ゲーム」というものが、そもそも複雑で、多様な文化であるという事、そして文化を解くには、広く人文・社会科学的な考察が必要である、という私の主張には、同意して頂けると考えています。

研究者は、もっと文化の複雑性というものに目を向けるべきです。複雑なものを、必要以上に単純化せず、その複雑さを充分に認識して、研究に当たるべきではないでしょうか。

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2005年12月21日 (水)

ゲームとは何か(1)

今回は、「ゲーム」とは何か。について考察していきたいと思います。

(今回から、『ゲーム脳の恐怖』の内容から大分離れるので、タイトルとカテゴリーを変えます。前回までは⇒ゲーム脳。『ゲーム脳の恐怖』については、今後改めて、詳しく論ずるかも知れません。)

先ず、「コンピュータ・ゲーム」の辞書的な定義をみてみましょう。コンピュータゲーム - Wikipediaには、

「コンピュータゲームとは、プレイヤーの行動(入力)以外の全てをコンピュータによって処理されるゲーム。ゲーム画面をビデオモニターに出力するためビデオゲームとも呼ばれる。また、いわゆるLSIゲームも含めて電子ゲームと呼ばれる場合もある。」

とあります。

上記の定義を見ると、「プレイヤーの行動(入力)」とあります。ここがとても重要です。何故ならば、これが、ゲームと言える為の必要条件の一つであると考えられるからです(人間の入力が反映されないのであれば、それを「ゲーム」と呼ぶ事は出来ないでしょう)。私達が種々の入力装置(キーボード、マウス、マイク、家庭用ゲームに用いられる所謂「コントローラ」、タッチパネル等)を用いて信号を入力し、それがコンピュータで変換・処理され、その結果が出力されます。勿論、それだけでは定義としては不十分なので、「コンピュータによって処理されるゲーム」と説明されています。そうしなければ、人間の入力の結果が反映される全てを、「コンピュータ・ゲーム」と看做さなければならなくなるからです。そして、「ゲーム画面をビデオモニターに出力」とあります。これにより、携帯電話を用いたゲームや、『たまごっち』などの小型ディスプレイを用いたゲームにまで一般化出来ます※

※「ビデオモニター」という語が妥当かどうか、という問題もあります。「表示装置」や「ディスプレイ」とするべきかも知れません。「テレビ」という語は、前回書いた理由により、不適当であると考えます。たまごっちの画面を「テレビ」という事は、一般的には無いでしょう。

ただ、注意しなければならないのは、視覚的な出力(即ち光信号の出力)は、必要条件ではない、という事です。視覚障害者用のゲームは、まさに「コンピュータ・ゲーム」ですが、プレイする際の出力(入力の手掛かり)は、一般的には、「音」の信号です。そこは踏まえておく必要があります。

ここで「コンピュータ・ゲーム」を、「ゲームの内、人間による信号の入力がコンピュータによって処理され、その結果が表示装置(ディスプレイ)やスピーカー等へ出力されるもの。出力された信号は、次の入力の手掛かりであり、操作の直接の対象である」としましょう。

この定義は、ある程度妥当なのではないでしょうか。

上の説明であれば、「テレビゲーム」も「携帯ゲーム」も、「携帯電話のゲーム」も「アーケードゲーム」も、『太鼓の達人』も『ダンスダンスレボリューション』も含まれます。そして、「ボウリング」や「パチンコ」、「麻雀」や「将棋」、「メール」や「チャット」は、「コンピュータ・ゲーム」とは言えない、となります。

この定義を用いる事によって、「ゲーム(あるいはテレビゲーム)が与える影響」や、「ゲームが脳に悪影響を及ぼす」という主張をする人々の「ゲーム」が、「(上記の定義による)コンピュータ・ゲームの内、表示装置を(主な)出力装置として用いるもの」である、と推測する事が出来ます。これはそれ程的外れではない筈です。ゲーム否定論者が、視覚野の活動に言及している事からも、それが窺えます。そして、「ゲーム」だけではなく、「メール」や「チャット」、「掲示板」等(の悪影響)に言及する論者は、上記の定義から、「ゲームの内」という部分を捨象し、表示装置を(主な)出力装置として用いる、という概念※2を想定しているのでしょう。『ゲーム脳の恐怖の』著者である森氏は、この様な概念を対象としていると思われます。即ち氏は、(上記の定義に従えば)『ゲーム脳の恐怖』において、「コンピュータ・ゲーム」の悪影響を「発見」したと主張し、他の著作等によって、※2にまでそれを拡張出来る、と主張したと言えます(それは、『ゲーム脳の恐怖』で仄めかされていた)。そして、その拡張した概念を、「ゲーム脳」という、狭い概念を示す語をそのまま用いて説明したのです。

※2「人間による信号の入力がコンピュータによって処理され、その結果が表示装置(ディスプレイ)に出力されるもの。出力された信号は、次の入力の手掛かりであり、操作の直接の対象である」の様になります。

さて、私は前回、「ゲームという文化が、他の様々な文化を部分的に含みうる、超複雑な、総合的文化現象である」と書きました。この事については次回論じます(今回言及する予定でしたが、長くなってしまったので、後回しにします)。

2006年11月29日追記:コンピュータゲームの定義を追加

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2005年12月20日 (火)

ゲーム脳の恐怖(5)

B-1:そもそも「テレビゲームとは何であるか」という視座が無い。(「テレビゲームの心身に与える影響」等を論ずる際に、最も重要である視座)

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)

「ゲームが脳に悪影響を与える」とか「ゲームは人間を暴力的にする」といった主張を見聞きした時、ゲームを良くする人は、次の様に考えるでしょう。

「”ゲーム”と一口に言っても、色々なジャンルがあるし、同じジャンルでも違いがあるのに、それらを一括りにして”ゲームの影響”と短絡するのはおかしい」と。

これは至極もっともな反論です。しかし、この様な反論にはお構い無しに、ゲーム否定論者は、「ゲーム」の悪影響論を展開します。

「ゲーム」が脳に与える影響を確かめるためには、先ず「ゲームとは何か」ということを明らかにし、それがどの様な特有の性質をもっているか、を明らかにしなければなりません。即ち、「ゲームを定義する」という事です。

そしてその上で、ゲームのどの特性が、どの様なメカニズムで脳に影響を及ぼすか、ということを論証する事が必要なのです。言い換えると、その様な検証を行うことなく、ゲームの悪影響等を論ずる事は出来ないのです。そうであるのに、ゲーム否定論者は、「ゲームとは何か」を明らかにせず、概念を曖昧にしたまま、悪影響が云々と言います※。『ゲーム脳の恐怖』でもそれは同様です(本書を通読すれば、「書かれていない」事が解ります)。そこでは、「ゲーム」という語が、学問的に措定されていません。著者は明らかに、「コンピュータ・ゲーム」や「テレビゲーム」を念頭においていますが、「”ゲーム”脳」という語を用いています。著者の研究内容からすると、「コンピュータ・ゲーム脳」や「テレビゲーム脳」とすべきです。にも拘らず、「ゲーム脳」という語を使用するのは妥当とは言えません※2。

※勿論、「ゲーム(テレビゲーム)とは何か」を定義、あるいは社会科学的に詳しく論じた研究者もいるかも知れません。私が調べた限りでは、その様な論文等は見出せませんでした。ゲームの影響について調べたと称する研究のことごとくが、森氏の様な科学的妥当性を著しく欠く研究や、ゲームの特性そのものについては詳しく論じていない社会心理学的研究(坂本章氏の研究等)でした。

※2「ゲーム」では概念の内容が広すぎます。例えば『広辞苑』(第五版)では「ゲーム」は、「1.遊戯。勝負事。2.競技。試合。」、又、ゲーム - Wikipediaによれば、「ゲームとは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博のこととして一般には認められているが、「ゲーム」という言葉が実際に使われている範囲は幅広く、万人に通じる定義付けは難しい。」とあります。これでは、著者がゲーム脳改善に効果的と紹介している「お手玉」等も含まれてしまいます。(それどころか、あらゆる文化が含まれてしまいます)

私がこれまで、「テレビゲーム」や「コンピュータ・ゲーム」とせずに、「ゲーム」としてきたのは、この様な言語論的事情からです(テレビゲームやコンピュータ・ゲームを含めた「代名詞」として我々は「ゲーム」という語を日常的に使いますが、私もその様に用いました。勿論、学術的概念に安易に用いるべきではありません)。メール等も含めるのであれば、「テレビゲーム」や「コンピュータ・ゲーム」という概念では狭すぎます。パソコンのディスプレイや携帯電話のディスプレイを、「テレビ」と言う人は少ないでしょう。「テレビ」は、日常的には、放送の受像機、といった所でしょうか(もっとも、この境界も曖昧ですが)。「テレビ」を一般化すれば(パソコンのディスプレイ等も含むとする)、それらを含める事も可能ですが、それでも、メールやチャットを「ゲーム」には含められない、という問題があります(コンピュータ・ゲームでも同様)。著者もこの事には気付いている筈です。わざわざ(別著で、ですが)「メール脳」なる語を生み出したのですから。この様な場合、より一般的な概念を生み出す努力をすべきですが、それをしていません。これは非科学的態度であると言えます。

という事で、実は「ゲーム脳」という概念を提唱しておきながら、メール等の悪影響についても書いている時点で、論理的に整合性を欠いている訳です。森氏の『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』でもそれは同様です。寧ろ、苦し紛れに(ご本人はそう思っていないでしょうけれど)新しい語を生み出しだという点では、『ゲーム脳の恐怖』よりも問題であるのかも知れません。

次回は、「ゲームとは何か」という事について具体的に考察します。ゲームという文化が、他の様々な文化を部分的に含みうる、超複雑な、総合的文化現象である、という事にも言及したいと思います(『ゲーム脳の恐怖』の内容からは殆ど離れてしまうでしょう)。

続きは⇒ゲームとは何か(1)

ゲーム脳の恐怖 Book ゲーム脳の恐怖

著者:森 昭雄
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ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳 Book ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳

著者:森 昭雄
販売元:講談社
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料理

料理の出来ない女性に対して、「料理も出来ないの。」とか「料理位した(出来た)ほうがいいよ。」と言う人がいます(男女問わず)。

料理の出来る男性に対して、「男なのに凄いね。」とか「偉い。」と言う人がいます(男女問わず)。

これって変ですよね。

料理は女性がするものなのでしょうか。

女性は、料理をしなければならないのでしょうか。

料理って難しいものですよ。

食事をしたりお風呂に入ったりする事より、遥かに難しいのです。

それを解っているのでしょうか。

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2005年12月19日 (月)

美容整形

美容整形に反対する人の意見に、「整形をした人に子どもが出来て、親と似ていなかったら、その子どもはどう思うか」というものがある。

これは、とても差別的な意見だと思う。親と子は似ていなければならないのですか。似ていない親子は存在しないのですか。

反対するのにこの様なこじつけはいらない。正直に言えば良いのだ、「嫌いだから」と。訳の分からない正当化をするべきではない。この様な正当化をする人は、「整形」だけではなく、「整形に関わる人」を嫌いになるのである。

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ゲーム脳の恐怖(4)

B-2:「ゲーム脳」という表現の問題―メールやパソコンのディスプレイの長時間の注視でも症状?が出ると主張しているのに、「ゲーム」脳という表現をするのは妥当性に欠ける。強い光刺激の恒常的な受容とでもすればよいのに、ゲームやメール・チャットなどを出してくるのは何故か。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)※B-1は後回しにします

まず、上に「メール・チャットなど」とありますが、それらの「悪影響」については、森氏の、『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』において詳しく論じられています(チャットという語はこちらに出てきます)。『ゲーム脳の恐怖』では、仄めかす程度しか出てきませんが、『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』※2では、ゲーム脳を一般化して、コンピュータを使用すること自体が問題であるとしています(メール・掲示板・チャット等)。そして、「メール脳」なる語まで生み出しています。更には、テレビ観賞も問題であると論じています。(関連記事:携帯メールでも脳が壊れる? 拡大する“ゲーム脳”汚染

※2本書については、森昭雄研究所:ITに殺される子どもたち - livedoor Blog(ブログ)において、詳細に検討・批判されています。是非ご参照下さい。

「”ゲーム”脳」という語が術語であると主張するならば、先ず「ゲーム」の定義を明らかにし、その特性が脳にどのように具体的に作用し、悪影響を及ぼすのかを論証し、その上で、「ゲーム脳」という概念の定義を明確にしなければなりません。ところが著者は、その様なプロセスを踏まず、「ゲーム脳」という語を曖昧に用い、更には、ゲームをやったことが無い人間も同様の状態になり得るとして、わざわざ「メール脳」などという、これまたとても曖昧な語を造っています。以下、上記関連記事より引用。

「たとえば森教授が調べた携帯メール利用者のケースには、テレビゲームはいっさいやっておらず(強調引用者)、パソコンも所有していないが、携帯電話でメールを毎日1時間程度入力するという女子高校生がいる。この少女は、携帯メール利用時にβ波がほぼ半減しているという。」

常識的に考えても、ゲームを(持続的に)やっている人間に現れる状態が、ゲームをやったことの無い人間にも現れる、という事が明らかになった場合、「ゲーム脳」という語を破棄し、ゲームとその他のもの(メール等)に共通する部分を見出す努力をする、という事が妥当だと思われますが、著者はそれをせず、新たな語まで造っています。これはとても非科学的な態度であると言えます。

ここで、「いや、”ゲーム脳”というのはあくまで便宜上つけた名前で、厳密な学術的概念ではないのだ。」という反論をする方がおられるかもしれません。しかし、その反論は妥当でありません。何故ならば、ゲーム以外でも同様の状態になる可能性があるのに、敢えて特定の文化の名を用語に含めることは、一般性に欠けるからです。のみならず、この様な科学的根拠の無い造語は、当該文化(ゲーム等)に関わる人々を不当に貶め、差別の対象にしてしまう可能性すら有るのです。「何を大袈裟な」と思われるかも知れませんが、現に著者は、『ゲーム脳の恐怖』において、

「子どもはテレビゲームをする習慣がつき、麻薬と同じようにやめられなくなっていきます。やがて、子どもの前頭前野の働きは低下し、動物脳と呼ばれる古い脳である大脳辺縁系に対して、常時動物的な行動に出ないようにする抑制がかけられなくなってくるのです。」(155頁)

「子どものころからテレビゲームをしている人は、やめようと思ってもやめられません。重症で、将来が心配です。」(158頁)

「テレビゲームをすることでは個性は生み出されません。まして幼児期にテレビゲームをさせておくのは、その子の個性や人間性がつくられないことになるのです。」(176頁)

等と書いているのです(同様の表現は、本書に無数に散りばめられています)。

これらは、特定の文化に関わったことのある子どもやその養育者、或いは開発者等に対する極めて重大な差別表現であり、その文化に関わっていない人々に対する恫喝の表現でもあります。そして、「ゲーム脳」がその認識を助長する言語装置として作用するのです。いやしくも科学者たるもの、この様な、非科学的認識に基づいた造語をするべきではありません。

さて、ゲーム(をプレイしている状況)で見出された状態が、他の状況でも見出されたのであれば、

  1. そもそもその様な状態は、人間に、一般的に見出されるものである。
  2. ゲームに特有ではない条件が、その様な状態を作り出している。
  3. ゲームをプレイしている時間、常にその様な状態になるわけではない。
  4. そもそも実験が間違っていた(実験器具の不具合、あるいは、脳科学(神経科学)的知識の不足等)。

等の、様々な解釈が出来るはずです(1.2.3.は、それぞれ関連する)が、著者はそう考えなかった様です。

森氏の一連の著作やインタビュー等を基に推測すれば、どうやら氏は、ディスプレイを注視する文化が、脳に悪影響を与えていると考えている様です。即ちテレビ・(コンピュータ)ゲーム・メール・チャット・掲示板等々。もしそう考えているのであれば、(ディスプレイから発せられる)光刺激の生理・心理に与える影響とでも一般化すれば良いのに(これは重要な研究だと思われます)、何故か、複数の異なる文化を、「ディスプレイを用いる」という共通性で(他にもあるかも知れませんが)一括りにして、その影響を論じています。恐らく氏にとっては、メールも、チャットも、ゲームも、全部「同じ物」なのでしょう(それなのに、文化内の差異をある程度認めている様でもある。そうすると、前提と矛盾するはずなのだが…)。しかも、その「同じ物」によって引き起こされる(と著者が確信している)状態(これも著者が確信している)を、「”ゲーム”脳」と表現しているのです。

ある文化の「影響」というものを考える際、その文化とはどの様なものであるかを詳細に考察するのが先決ですが、森氏や同調者は、それを全く行っていません。ここに、彼・彼女達の、ゲーム等にたいする「みくびり」が見てとれます。ゲームなど、真面目に考察するに値しない、単純な文化であると考えているのでしょう。もしかすると、文化ですらない、と考えているかも知れません。

私は、その様な考えは間違っていると考えています。ゲームというのは途轍もない複雑さを持った文化であり、それを科学的に分析する事は、非常に困難な事であると認識しています。次回以降、この事について書きたいと思います。

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ゲーム脳の恐怖(3)

A-3:2.に関連して、データの恣意的な解釈、見落とし、あるいは意図的な無視が見られる。

A-4:主観的印象・既成観念の過度の一般化、つまり、そもそもゲームは良くないものだと思い込んでおり、それを正当化するために論述をすすめている。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002 参照)

これらについては、各所で痛烈に批判されています。

例えば、まえがきにおいて、ゲームのキャラクターと同じ格好をしている(コスプレ)人をみて「ショックを受け」(5頁)たことや(しかも、何故か「無表情で歩いている」(5頁)という表現をしている)、(その経験を基にしての)日本の未来に対する危惧が書かれています。その後も、「異様な雰囲気」(5頁)等の、極めて主観的な、「印象」が語られています。即ち、ある特定の文化に対するネガティブな評価が先にあり、それを正当化するために論述が進められている、ということです。

経験的な認識を基にして、仮説を構築すること自体は、特に問題はありませんが、その仮説を検証(あるいは反証)する際に、著者は、とても科学的妥当性が充分とはいえないプロセスを踏んでいます。

例えば1章には、

「高齢者における痴呆を、おでこに相当する前頭前野領域の頭皮上から記録されるα波とβ波の比を求めることで、約85(引用者註:原典は漢数字)パーセント判定できる機器とその方法を確立してきたのです。」(21頁)

とあります。ここで、痴呆(認知症)を「約85パーセント判定できる」としていますが、まずその主張が妥当であるかどうか、という問題があります。脳波から認知症であることを判定出来るということは、認知症の人に特異的にその脳波のパターンが現れることを実証しなければならないはずですが、そのことについては言及されていません(この主張の妥当性については、各所で批判されています)。

更に、この主張を前提として、ソフトウェア開発者(8人)の脳波を測り、「痴呆者と同じ脳波を示した」(21頁)と言っています(どの様な状況で脳波を測定したかは書かれていない)。ちなみに、21-22頁では、開発者(の仕事)に対して、「ひらめいたり、集中しているのはわずかな時間で、ただ画面をみている時間のほうが圧倒的に長いのです。」と評価しています。この記述は、仕事の「慣れ」等について全く考慮されていません。常識的に考えて、毎日数時間する仕事には、創造的な思考を働かせる場面や、殆ど何も考えずに身体を動かす時間もあるでしょう。そしてそれは、どの様な仕事でも同様です。常に強力に集中し、創造力を働かせる、ということ自体が、かなり特殊な状況でしょう。もし、ソフトウェア開発者(プログラマー等)の仕事が、他の仕事に比べて集中力も創造力も少なくてすむ、と主張するのであれば、それを社会科学的に研究する必要がありますが、それもありません。著者は、脳波を計測して、良くない(と著者が主張する)波形が見出されたから、開発者の仕事は、脳をあまり使わなくても出来るのだろう、という誤謬をおかしたのではないでしょうか。

25頁には、以下の様な記述があります。

「前頭前野の機能低下と思われる身近な例も挙げてみましょう。たとえば、人目を気にせず電車内で化粧をしている人、公衆の面前で抱き合っているカップルなど。人間らしさを表現する場所である前頭前野が働かず、理性、道徳心、羞恥心、こんなことをしたら周囲がどう思うだろうということを、考えられなくなってしまっているのです。」

ここでは、著者や、著者に類似の主張をする人に共通する論理の展開がみられます。即ち、「価値」や「認知」の問題を、即座に「脳機能の低下」に結び付ける、という誤謬です。

価値観の違いを、脳機能の「異なり」に拠る、と看做すことは出来るでしょう。認知が脳の神経細胞の活動パターンであると考えれば、当然その様な見方をすることは出来ます。しかし、「電車内で化粧をする」ことや、「公衆の面前で抱き合」うことが、脳の「機能低下」の結果である、と言うのは間違っています。自分が「道徳的であると思う」ことを普遍的な価値だと決めつけ、それを他人に押し付ける、そして、その価値観に合わない言動を、「非常識」だと看做し、マイナスの評価を下します。あまつさえ、その根拠を、脳波(やMRIやMEGやPET)の測定結果に求めます。「非常識な行動をとる人は、脳がおかしくなっているのだ」と。脳科学者等が、この様な主張をしているのを見かけることがあります(森氏はその筆頭と言えるでしょう)。このような主張に、私は恐ろしさを覚えます。

価値観などというものは、相対的なものです。それは、文化毎に差異があり、どれが「正しい」とはそもそもいえないのです。森氏と同様の主張を展開する人々には、広い人文・社会科学的(記号論や文化人類学、社会心理学等の)認識が足りないのでしょう。

26-28頁では、睡眠時間減少とテレビゲームの関係について論じられていますが、ここでも、睡眠時間が減少しているというNHKの調査が紹介されているだけで、それが、テレビゲームをやる時間が長くなったから、という主張と無理矢理結び付けられています。あるのは、テレビゲームをする「頻度」についてのデータで、睡眠時間減少とテレビゲームをやる時間との因果関係については、論じられていません。例えば、学校の勉強をする時間の増加と睡眠時間の減少に有意の関係が見出されたとして、「勉強時間を減らせ!」と、「テレビゲームをする時間を減らせ!」という時と同じ調子で、言うのでしょうか。恐らく言わないでしょう。初めから、勉強=役に立つもの、テレビゲーム等=役に立たないもの、という前提があるでしょうから。

又、そもそも睡眠時間が減ることが悪い事なのかどうか、についても何も語られていません。どの位睡眠をとれば良いのか、それはどの様なメカニズムに拠るものなのか、等についてです。

以上の様な誤謬は、本書の到る所に見られ、枚挙に遑がありません。

それを、著者が意図的に(嫌いなものを攻撃しようとして)行っているのか、あるいは確信犯的に(正しいと信じて)行っているのかは、知る由もありませんが、著者に、社会科学的認識が足りないのは確かだといえるでしょう。「認知」に対する考察なくして、文化と行動の関係など、論ずることは出来ないのです。

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2005年12月18日 (日)

ゲーム脳の恐怖(2)

A-1:「ゲーム脳」という概念の学術的定義が為されていない。

A-2:統計学的(社会調査的)妥当性に乏しい。

について、です。(森昭雄:『ゲーム脳の恐怖』,2002,第3章を参照)

本書を通読すれば解りますが、「ゲーム脳とは何々である」という明確な説明がありません。あるのは、ゲームを普段、長時間している人に現れる特有の脳波パターンに対して、「ゲーム脳タイプ」と名付ける、という記述です(78頁)。

さて、ここで問題があります。

上に「特有の」と書きましたが、ゲーム脳タイプの脳波(と名付けられたもの)が、果たして著者が言う様に、ゲームを長時間する人間に、特異的に現れるものであるか、ということです。

脳波のパターンが、脳活動を反映したものであることは当然ですが(著者が用いた脳波計が正確であったかどうか、という重要な問題はありますが)、それが果たして「テレビゲームを長時間(習慣的に)しているから」かどうかは、又別の問題です。

脳波計測の際に用いられたゲーム(おそらく「テトリス」と思われる)に対する興味、ゲームに対する慣れ、実験に協力する際の取り組み方等を考慮せずに、無理矢理短絡されている様に読み取れます。

又、実験に協力した対象を、どの様にして抽出し、得られたデータにどの様な統計学的操作を加えたか、等については、殆ど書かれていません(「多くの大学生」(72頁)としか書かれていない)、サンプルサイズなど、書かれてすらいません。

社会調査において、これらについて明記することは必須の条件ですが、本書では、この点がとても曖昧です。

仮に、(統計学的に)充分な妥当性を備えた研究によって、ある脳波と、テレビゲームをする時間との相関が見出されたとしても、テレビゲームが特有の脳活動を引き起こすメカニズムを、明らかにしなければなりません。即ち、「テレビゲーム」という文化の、どの部分が、どの様に作用し、脳の特有な活動を生み出すか、ということの因果関係を、明確に記述する必要がある、ということです。そして、その考察を進めるためには、「テレビゲームとは何か」という視座が欠かせないものとなります(このことについては、後日詳述します)。ここでは、単なる統計学的認識ではなく、広く社会科学的な認識が必要とされます。

勿論、そもそも本書で「ゲーム脳タイプ」とされる脳波が、「悪い(という言い方もおかしいですが)」脳波であるかどうか、という問題もあります。この点については、斉藤環氏等が、批判を加えています。(参考:斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1[www.tv-game.com]

森氏を初めとした、森氏と類似の主張をする人々は、物事を単純化し、複雑な「認知」の問題を棚上げにして、結論を短絡します。彼・彼女等は、行動主義的人間観を持っているのかも知れません。

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2005年12月17日 (土)

差別

怖いのは、

「自分は差別などしていない」と思い込んでいる人だ。

自分の言動がどの様に相手に響くかを、常に意識しなければならない。

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考える

凶悪事件が増えた、と言う人がいる。

少年犯罪が増えた、と言う人がいる。

良く吟味することなく鵜呑みにし、ステレオタイプを作り上げ、不当な非難を繰り返す。

恐ろしいことだ。

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ゲーム脳の恐怖(1)

さて、「ゲーム脳の恐怖」についてです。

その前に、お断りしておきます。

これから書く内容は、『ゲーム脳の恐怖』を読まれた方を対象にしています。従って、読んでいることを前提として論を進めていきますので、その点はご了承下さい。未読の方には、是非原典に当たられることをお勧めします。(私は、本書を初めて読んだ時に、目から鱗が落ちました。「この様な非科学的な本を公刊することが出来るのか。」と。)

閑話休題。本題に戻ります。

まず、本書全体に亘る問題点を列挙してみましょう。(類似の主張の殆どに当てはまることでもあります)

  1. 「ゲーム脳」という概念の学術的定義が為されていない。
  2. 統計学的(社会調査的)妥当性に乏しい。
  3. 2.に関連して データの恣意的な解釈、見落とし、あるいは意図的な無視が見られる。
  4. 主観的印象・既成観念の過度の一般化、つまり、そもそもゲームは良くないものだと思い込んでおり、それを正当化するために論述をすすめている。

以下は、批判者もあまり指摘しない点です。

  1. そもそも「テレビゲームとは何であるか」という視座が無い。(「テレビゲームの心身に与える影響」等を論ずる際に、最も重要である視座)
  2. 「ゲーム脳」という表現の問題―メールやパソコンのディスプレイの長時間の注視でも症状?が出ると主張している※のに、「ゲーム」脳という表現をするのは妥当性に欠ける。強い光刺激の恒常的な受容とでもすればよいのに、ゲームやメール・チャットなどを出してくるのは何故か。

等です。

※この主張は、『ゲーム脳の恐怖』の著者である森昭雄氏の、『ITに殺される子どもたち 蔓延するゲーム脳』等によって展開されています。

次回以降、上記について、一つ一つ具体的に見ていきたいと思います。特に、今までの批判者が余り具体的に論じていない、B-1の「そもそもテレビゲームとは何であるか」ということについて、又、その心身に与える影響について考察するには、どの様にすれば良いか、ということについては、詳細に書きます。

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ゲーム脳等

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今日から、「ゲーム脳」等について、書いてみようと思います。

もはや、論破され尽くした感のあるゲーム脳論なので、今更、と思われるかも知れませんが、他の批判者の方々とはちょっと違う視点からの批判も試みたいと考えています。

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色々な事について、

色々書いてみようと思います。

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